Commonism

作・演出・出演:Andy Smith, Armund Sjølie Sveen
2019年1月8日~11日、Birmingham Repertory Theatre

昨年夏のエジンバラフェスティバルフリンジ、スタンダップコメディアンのKieran Hodgesonがブレクジットに真正面から取り組んだショウ、  ’78 の導入部でこう話していたのが印象に残ってます。「今、ブレクジットネタなんて、タイミングを逃してるって言われちゃうんだけど…。」実際、関連するテーマ(例えば、移民、難民問題、NHS(国民保健サービス)など)を扱う作品は少なからずあれど、ブレクジットそれ自体を主題とする作品、しかも批評的に高く評価されるものは予想以上に少なかったというのが私の感覚です。国を左右する一大事まで一年を切った段階で、演劇、パフォーマンスの世界は意外にも冷静なものだと感じたものでした。(ちなみに、国民投票以降、イギリスの演劇界は(特に規模の大きい劇場は)ブレクジットに対して応答してこなかった、という批判も出てきてはいます。Matt Trueman: British theatre has its head in the sand over Brexit <https://www.thestage.co.uk/opinion/2019/matt-trueman-british-theatre-brexit/>)

さて、そんな呑気でいられた夏から一転、秋から現在に至る英国議会の大混乱は政治アナリストが匙を投げるような状態なのはご存知の通りかと思います。というか、説明しようとしたところで明日には情勢が変わっているような、ニュース速報に次ぐニュース速報の日々です。ちなみにこれを書いている時点では…、と初稿で書いていた内容が、改稿中の今すでに遅れた情報になっていたので消しました。今のところ、離脱案の再交渉要請が議論に上り、んなもんありえるかというEUサイドのステートメントが続々上がっている状況です。とはいえ、イングランドでガイジンのガクセイとして暮らす私にとって、この事態は良くも悪くも直接関わることはできず、他方で受ける影響も(少なくとも滞在許可に関して言えば)比較的少ないわけで、靄をつかむような状況を把握しようと想像を働かせるよりは靄の中でぼんやりしている方がずっと楽じゃないか?、という考えがちらつくのが正直なところでもあります。

この状況下、小さいながら一つのマニフェストを表明したのが、今回取り上げるCommonismです。イギリスのパフォーマー、演出家であるAndy Smithとノルウェーのパフォーマー、ミュージシャンのArmund Sjølie Sveenの共作で、一時間ほどの小品です。二人はテーブルに向かい合い、Commonisim――人々の間の共通の事柄を探し出し、連帯する――の理念へ向けて、国家について、グローバライゼーションについて、あるいは経済について、新自由主義や貧困の問題、そして演劇、パフォーマンスの役割についてディスカッションを重ねていきます。けれども、Sveenがどうにか前向きに事態を考えていこうとする反面、Smithは斜に構えた応答しかしない。物事を悲観的に見る方が圧倒的に力が強く、結局対話はどん詰まり、世界の未来はとことん暗いなぁと途方に暮れることの繰り返しになってしまう。シニカルでペシミスティックな人間が未来予想の賭けでは勝つのだろうか、何かに期待してがっかりするよりかはその方がずっと気楽だろうか、話し込む二人にじわじわと諦めの空気が漂います。

しかしふとテーブルに目を向けると、二人してどでかいファイルをどんと置き、一ページ一ページスクリプトをめくりながら対話を続けている。実は作品の導入で、これから始まるパフォーマンスは'prepared conversation'(用意された対話)であることが観客に伝えられています。二人が同じタイミングでペラッペラッと結構大きな音を立ててページをめくるたびに、この対話は所詮舞台の上での話でしかないのだということを見せつけられる。しかしながら、あらかじめ用意された台本はいわゆる「演劇」のためのものではなく、つまり二人は何かのキャラクターを――SmithあるいはSveen「自身」というキャラクターでさえ――演じているわけではなく、ただ彼らは彼ら自身として、用意されたスクリプトをそれらしく読み上げているに過ぎません。あからさまにスクリプト前にして、さも真剣な対話を交わしているかのようなポーズは、彼らが話す内容と話している彼らの態度との間に薄い層を生み出します。語ろうとするほどに泥沼に陥る社会の現状に対して、言葉ではなく態度でならばほんの少し距離が取れるかもしれない。その可能性を見せる良い仕掛けです。

スクリプトを全て読み上げ、「対話」を終えた二人はおもむろにスーツケースを取り出し、その中に詰め込まれた Commonism: A Manifest For Radical Equality and Radical Freedom(コモニズム:根源的な平等と自由のためのマニフェスト)と題された冊子を観客に配っていきます。カール・マルクス、ベルトルト・ブレヒト、サラ・アーメッドの言葉をエピグラフに引き、社会変革のためのラディカルな理念が綴られています。そして、マニフェストの終わりはこのように締めくくられます。「これが継続した前進のための私たちのフレームワークである。これがコモニズムだ。私たちが何者であろうと、私たちの出自がいかなるものであろうと、私たちは日々未来に対する挑戦に遭遇し、またその挑戦を作り出してもいることを認識している。こうした挑戦が小さくとも大きくとも、私たちはそれらに対し働きかけなければならない。私たちは自分自身のことから始めなければならない。」身もふたもなく言えば、ベタです。それでも、悲観的な現状認識をきちんと踏み台にしての提言を受けて、わざわざ暗い展望へ留まる理由もないでしょう。

「用意された会話」の間、繰り返し目立って言及されるのは、彼ら二人が「ヨーロッパ」の「白人」の「ミドルクラス」の「男性」で、芸術を生業にしながらそこそこ食べていけてる、という事実です。こうした一般に特権的とされる属性を持つ人間の作品であることは、少し過剰なほどに強調されます。黙っていたところで、彼らがそのようなステータスにあることは当然ある程度は客席からも想定できるのですが、繰り返される言及には、安易な包括的な「私たち」という主語を避けようとする意図を感じます。コモニズムの基礎である、私たちの間の共通点を探っていく、という作業は裏を返せば、私たちの間の差異は何かを探る作業でもあるはずです。客席には私を含めいくらかの非白人の観客がいましたし、男女比はおおよそ半々といったところでしょうか。(ただし観客の階層に関してはイギリスの劇場では、多くの場合ミドルクラス以上です。外見的にすぐ判断がつくものではないですが、おそらく今回もそうだったでしょう。観客、作り手を問わず演劇界における階級の偏りは、繰り返し批評家や研究者が問題として指摘しています。)「私たち」という主語が、例えば彼ら二人の間で、また彼らと私、その他の観客たちとの間で、いかにして可能なのかは、ブレクジットの靄の中でも私が具体的に考えられる事柄の一つです。

終演後、劇場ロビーにVote Leave(EU離脱賛成派)のキャンペーンの人々がいました。ちょうど翌週にメイ首相のEU離脱案の可否を問う採決を控えていたタイミングで、作品内容を知ってアピールに来たのだろうと思います。赤いバナーを見た瞬間、正直うっと息が詰まりました。このひと月前に見知らぬ中年の白人男性から、おそらくは私がアジア人で女であることを理由に、ひどく乱暴な態度を取られたことが、目の前の光景と結びついたからです。様々に思いがよぎる中、ふと劇場は安全な場所なのだろうかと考えます。劇場の周辺は、あるいは建物の中なら、劇場内は、それとも客席ならば?SmithとSveenの提言するコモニズムを思索する時間を、離脱派の活動家達が立つこのロビーで彼らとともに持つことが出来たら。作品を反芻しつつ、けれど足早に劇場を去ったことが、今年最初の観劇経験の一つになりました。

注:この記事は2019年1月末に公開する予定で書いたものですが、諸事情により公開が遅れてしまいました。ブレクジットの情勢は、記事を書いてからの三週間あまりの間でさらに混迷を極めている状態です。私自身の考えもこの短い期間のうちに少し変わってきています。ですが、記録の意味も込めて、本文の改訂はせず1月に公開する予定だったものをそのままアップロードします。




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