小さな宇宙の中に

隣の家に住む祥子は、身勝手で自己中心的で、悪魔的な女だった。

一緒に幼稚園に歩いて行っている途中、僕が転んでけがをして泣いてしまったら、「泣くな」と一蹴し、一人でさっさと先に行ってしまったり、小学1年生の時、僕がこっそりお漏らしをしてしまったときは、いち早く見つけて友達に言いふらしたりと、小さな僕の心を深く傷つけてきた。

そのくせ自分が困ったときは、大きな瞳に涙を浮かべて頼ってきたり、自分で作ったお菓子をおすそ分けにきたりと、巧妙に飴と鞭を使い分けてくる。

祥子は顔は整っている方だし、外面はいいので、人からの評価は悪くはなかった。

そんな祥子とは、もう2年ほどまともに口をきいていなかった。

2年前のある日、失恋して傷ついている僕を見て、いつものようにケラケラと笑い、人間性を疑うような発言をしてきた(今でも思い出したくない)。その言動に、さすがの僕も堪忍袋の緒が切れ、もう二度と関わるものかと怒鳴りつけたことがあった。

祥子は、僕がそんなことをしないと思っていたのだろう。
最初はへらへらと謝ったり、僕の機嫌を取ろうとしてきたが、僕が許さないと心に決めたことを察し、徐々に僕に関わろうとしなくなった。

親たちは、思春期によくありがちな症状だと思い込み、僕たちの間に生じた亀裂については大した心配をしていなかった。

そのことも相まって、僕たちの距離は物理的にも心理的にも、この2年間でどんどん離れていった。

そんな祥子が、最近どうもおかしい。

きっかけは、僕の家の祖母が救急車で運ばれたことだった。僕の祖母が庭で倒れているのを、学校から帰宅していた祥子が見つけたのだ。

祥子が手際よく救急車を呼び、僕の両親に連絡をしてくれた。そして、なんと病院に付き添ってくれたのだ。

病院に駆けつけた僕を見て、祥子は2年ぶりに話しかけてきた。

「おばあちゃん、心配だね。早く良くなるといいね。」

僕は、「そうだね」と無難に一言返したが、心の中は台風のように動揺していた。

ーあの悪魔のような祥子が優しい声をかけてくるなんてー

祖母は、幸いなことに命に別状はなかったが、入院と長期的なリハビリが必要とのことだった。母は祖母に付きっ切りとなり、父も仕事が忙しいこともあり、家で一人で過ごす時間が多くなった。

そんな僕を気にかけてか、祥子はカレーや煮物などお裾分けを家に届けに来た。最初はおかずを受け取ると、一言二言お礼のような言葉を交わすだけだったが、徐々に他愛のない話をするようになった。

祥子は、僕の話を穏やかな表情で聞き、時々ニッコリと笑いながらも、僕や、僕の祖母、母親や父親のことを心配するような言葉をかけてきた。僕はそんな祥子と過ごす時間を、極めて普通に接するよう気を付けていた。

しかし、小さなころの悪魔のような祥子を知っている僕は、穏やかになった祥子に戸惑い、心の中は疑いの目で見ていた。そんなに穏やかに笑う祥子など、今まで一度も見たことはない。

(こんな祥子は、祥子じゃない。祥子の姿をした別のなにかだ)

思いつめて、同じ小中学校に通っていた同級生に、最近の祥子の様子を伝えてみた。僕は、必死に祥子の違いを説明するのだが、同級生はただニヤニヤと笑い、僕のことをからかって相手にしようとしなかった。

(僕だけが気付いているんだ。今の祥子の正体に。あいつは絶対祥子じゃない。)

ある日、部活でくたくたになった僕は、家に帰りリビングのソファーでごろんと寝ころんだ。(今日もあの祥子は来るんだろうか。)と思いながら目を閉じると、そのままうたた寝をしてしまった。

目を開けると、体の上にはブランケットがかかっていた。体を起こすと、祥子が台所で持ってきた味噌汁を温めていた。

祥子は僕が起きたことに気付き、「玄関も閉めずに寝ちゃって。危ないなぁ。」と冗談をいうように笑いながら僕に話しかけてきた。

「もう寒いんだから、寝るんだったら温かくしなくっちゃ。」とニッコリと微笑みながら、あきれたように僕に語り掛ける。

きっとブランケットも祥子がかけてくれたんだろう。祥子からこんなに優しくされたことなんて今まで一度もなかった。

(やはりそうか。)と、僕は意を決して、祥子に話しかけた。

「最近、なんか優しくなったよね。」

僕の言葉に、祥子は笑いながら返した。

「えーそうかな。私は小さいころから優しいけど。」

昔の祥子なら機嫌が悪くして、おそらくこんな返しはしてこないだろう。やはり今の祥子は、昔の祥子と決定的に何かが違うのだ。

「いーや。優しくなったよ。」
僕は核心に迫るように、意地悪を言うように続けた。
「もしかして、宇宙人と入れ替わったんじゃないの?」

それを聞いた祥子は、一瞬虚を突かれたような顔をして笑顔が消えた。
食卓に夕日が差し込み、祥子はうつむいた。
しばらくの静寂の後、祥子は少し顔を歪ませ、僕にこう言い放った。
「ばれた?」

そして、ニヤリと悪い笑顔を見せて

「そうなの。実は宇宙人と入れ替わってるのよ」と呟いた。

その笑顔は、まさしく僕の知る悪魔的な祥子だった。
しかし、すぐにまたいつもの笑顔に戻り「温かいうちに食べてね。おばさんによろしく。」と言い残すと台所から出ていった。

僕は何を思ったのか「待って」と祥子の腕をつかみ、引き留めた。

祥子は、ばつが悪そうに微笑み「ごめんね」と明るい声で呟き、そっと僕の腕をといて、振り返らずに玄関から出ていった。

それから、祥子は僕の家に来ることはなくなった。
道ですれ違っても、祥子はにこやかにただ挨拶をするだけだった。
退院した祖母は「祥子ちゃんがいてよかった。昔から本当に良い子だね。」と僕によく話をかけてくる。
僕はその話を聞いているのかいないのかわからない態度で、「よかったね。」と呟くのだった。


僕は、思う。

ー僕の知っていた祥子は、本当に祥子だったのだろうかー

学校から帰り、一人きりの自分の家のリビングで、深く目を閉じた。

僕の知ってる祥子は、すでに祥子でなくなっていた。
祥子は、祥子の形をした宇宙人になっていたのだ。
僕のことを困らして、振り回して、甘えてきた悪魔のような祥子は、もうこの世に存在しないのだ。

僕が今こうして目を閉じている間にも、祥子は僕の知らない何かになっているのだろう。

そう、祥子は僕を置いて変わってしまったのだ。

僕の知っていた悪魔的な祥子は、宇宙の中をさまよっているのかもしれない。

変われなかった、僕の頭の中の宇宙のどこかで。

その真実を受け入れれたのは、それに気づいてからも、しばらく先のことだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?