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貨幣の歴史を辿るとお金の本質が見えてきた。

前澤さんのお年玉企画がまた賑わってます。良い悪いよりもやはりなぜここまで人が動くのか?にすごく興味が湧きます。なので今日はお金の歴史を調べ考察してみます。貨幣が私たちにもたらしたものは何か?その本質を理解する事で、今後のお金との付き合い方をシェア出来ればと思います。あなたにとって有意義なnoteになればとても嬉しいです。

物々交換の限界が貨幣を創り出した

狩猟採集民時代も農業革命が起こった時代も貨幣はありませんでした。そもそも”必要が無かった“わけですが、その理由はどの集団も食べ物や狩りをする道具も全て、必要なものは採集し作る事が可能だった為、経済的にほとんど自立していた事があげられます。その頃はほとんどが非常に小さな集団で、地元では手に入らない物があって、仮によそから手に入れなければならない物がある場合も、「この貝殻あげるからこの石ちょうだい」というような物々交換で充分に事足りていました。ただし、互恵性の前提が伴っていたからできた事です。私は沖縄で生まれ育ちましたが、なかなかの田舎でしたので、近所とはほとんど顔見知りでしたし、野菜や魚など食べ物に限定はされますが、物々交換が成り立っていて、食べ物をわざわざ買いに行かなくても困る事はありませんでした。これも小さなコミュニティで信頼関係があって成り立つ事だと思います。話を戻して農業革命が起こってからもその変化はなく、狩猟採集民と同じように時給自足の経済単位で互恵性の前提が伴ったまま若干の外部の人との物々交換で成り立っていました。村には靴作りに詳しい人や身体のことについて詳しい人がいたから、何かあったら誰かに頼ればいい事を承知していたんですね。ただ問題が一つあって、あまりにも部落が小さく、その経済規模が限られていたので、靴職人やお医者さんなどの専業を持つことは難しい状態でした。そんな最中に農業革命によって爆発的な人口増加を招いた為、やがて都市や王国が台頭します。

都市や王国が台頭して、輸送インフラが充実すると、専業を持つ事が難しかった小さな部落とは違い、あらゆる事を専門化する機会が生まれました。これは社員が小さな規模の会社の場合はそれぞれが営業も経理もやりながらなんとかなりますが、大企業になればなるほど専門の部署や人事が必要になるのと似ているかもしれません。現在の社会も驚くほど細分化されています。靴職人やお医者さんだけでなく、大工や兵士や法律家などもそれぞれの仕事に専従する事が出来るようになりました。専従出来る人が増えるとその物自体のクオリティが上がっていくので、「あの村の建物がかなり頑丈らしい」と、良い評判が広まっていきます。そこで初めて、何かに特化して物などを作り出した方が価値がある事を発見したわけです。これはなかなかいい発見だと私は思っていて、例えば、沖縄で作った方が美味しい野菜、九州で取れた方が美味しい魚、東北で作った方が美味しい果物など、地の利を活かした物が作れるなら、わざわざ無理して作れない物を作ろうとせずに、自分たちにしか無い物を作れば、他の部落にとってそれは価値があるので、比較的簡単に物々交換交換が出来るわけです。そうすると、専門家のお医者さんや大工さんや法律家の人たちは自分の腕を磨いていけば、たくさんの人の役に立てるようになったのです。

ただ、ここで一つ問題にぶつかります。
専門家同士の物々交換がどうすればいいのか?
どう管理していけばいいのか?
これまでの物々交換はいわば恩恵と義務で成り立っていました。ですが、王国や都市のように経済規模が大きくなると、見ず知らずの人が協力するのはとても難しくなりました。家族や親戚ならタダでもいろいろ協力して助け合うことは出来ても、全く知らない他人をリスクを背負って助けるのとでは話しが違ってくるのが自然です。もちろんそこでも物々交換に頼る事は出来たかもしれませんが、それはある種限られた品物を交換する時にだけ効果を発揮していて、こんなに大きな王国の複雑な経済基盤になることは出来なかったのです。

例えば、あなたが凄い大きなりんご庭園を持っていて、毎日仕事を頑張っていたとします。そして靴がぼろぼろになってしまった時に、ある知人から私(凄腕の靴職人)の噂を聞きつけ、私のところにやってきます。あなたは美味しいりんごが作れるので、物々交換と品物としてもちろんりんごを持ってくると思います。ですが、私は凄腕の靴職人なので、毎日たくさんの人が私の元を訪れその中にはりんごを持ってくる人もいます。クオリティはさまざま。前回のお客様は小さな女性で少し酸っぱいりんごを持ってきてくれました。他の人はヤギとか薬とか持ってくる人もいます。そうなると私はあなたから何個のりんごを受け取ればいいのか分からなくなります。あなたのりんごをまだ食べた事もなければ、他の人のりんごの価値がどのくらいあるのか分からないからです。しかも運悪く、あなたがきたタイミングは靴を治すのに必要な羊の皮が大規模な病気によって品薄です。
この話しで問題なのは、物々交換の経済では誰であろうと、その商品の相対的な価値を毎日毎日把握しておく必要がある事です。1000個の商品が取り引きされてる場合恐ろしい数の交換レートを頭に入れておく必要が出てきます。
しかも、もしそれが可能でも、私がりんごが嫌いだった場合、私はりんごではなくて髪を切りたかった場合どうするのだろう。仮に美容師を見つけ出し、三者で取り引きする事も出来るかもしれないが、美容師の人がウンザリするほどりんごを食べていたら、話が終わる可能性が高いです。これが物々交換の限界です。

** 限界を感じたのちに**

いよいよ貨幣が誕生します。ですが、たくさんの失敗を繰り返してきました。有名のながソヴィエト連邦のある施策。専門家から産物や製品を一旦中央に集め、必要とする人に分配する事でこの物々交換の問題を解決しようとしたわけです。この大規模な実験は見事なまでの失敗に終わったのですが、「誰もが持っている能力に応じて働いて、必要に応じて受け取る」という理想が「誰もがサボれるだけサボり、もらえるだけもらう」結果を招きました。私は社会人になってから“社会は平等ではない”事を学びましたが歴史を辿ると納得出来る事もあります。豊かな国に生まれ出来る事を何もせず恩恵を受けたいと願う事がいかに不自然であるか。

先に述べたソヴィエト連邦の例に似た(もう少し節度ある)取り組みをしたのがインカ帝国で、まだ良い結果が出ましたが、やはり上手くはいきませんでした。そして、多くの社会が失敗を繰り返しながら、大勢の専門家を結びつけるためにもっと手軽な方法を発見します。
それが貨幣です。

** 貨幣の誕生**

貨幣について調べると面白い記述があります。

貨幣は多くの場所で何度も生み出されたが、その発達には、技術的な飛躍的発展は必要ない。それは純粋に精神的な革命で、それには、人々が共有する想像の中にだけ、存在する新しい共同主観的現実があればよかった。

ここではっきりと分かるのが、貨幣の本質が物そのものではなく、目には見えないところにある。という事です。しかも、貨幣は硬貨や紙幣とは限りません。物やサービスと交換する目的で、他のものの価値を体系的に表す為に人が使うものであれば何でも貨幣になり得ます。貨幣のお陰で私たちは価値を素早く簡単に比較出来ます。そしてそれを交換したり蓄えたり出来るのです。貨幣の種類で最も馴染みがあるのは紙幣や硬貨ですが、貨幣には様々な種類があります。「昔は貝殻がお金の代わりだった」などは聞いた事があるかもしれません。という事は、貨幣は硬貨が作られるはるか前から存在していた事になります。それぞれの社会の文化に合わせた、穀、牛、皮、塩、布、約束手形などが通貨として使われ栄えていきました。最近まで、監獄や捕虜収容では、タバコが貨幣として使われてきました。その当時のアウシュビッツの生存者は「私たちは独自の通貨を持っていた。その価値を疑うものは誰もいなかった」と言っています。そこではタバコも貨幣として機能していたことになります。

さらに興味深いのは今日でさえ、私たちにとって最も馴染みのある硬貨と紙幣も、貨幣の形態として少数派で、2006年に全世界の貨幣は合計約473兆ドルだったが、硬貨と紙幣の総額は47兆ドルに満たない数値です。では残りの約400兆ドルは、どこにあるのか?実は貨幣のそのほとんどはコンピュータ上のサーバーの上に存在する事になるのです。したがって、今日の商取引は有形の現金にやり取りを行わず、あるコンピュータ上のファイルからあるコンピュータ上のファイルに電子データを移動させる事でそれが可能になっています。まずここで、お金が物ではない事がはっきりと分かっていただけたと思います。実際クレジットカードやキャリア決済なども現金を使わず商取引が行えます。日本はだいぶ遅れをとっていますが、私はその方がよりお金の本質を理解しやすいと思っています。複雑な商業システムを上手く機能させるには何らかの種類の貨幣が必要になっています。貨幣経済の中にいる私たちは、欲しいものの値段さえ知っていればそれで済みます。物々交換の時代のように、靴や果物や牛などの効果レートを暗記する必要がありません。しかも靴が欲しい専門家を探す必要がないわけです。貨幣はいつでも誰でも欲しがるからですね。これが貨幣が持つ最も基本的な特性の一つです。

貨幣をほとんどの人を欲しがるのは、他の誰もが欲しがるからで、そのおかげで貨幣を出せば欲しい物や必要なものを手に入れられます。

貨幣は普遍的な交換媒体になったんですね。

** 貨幣が機能するとき**

最後のまとめになります。昔の貝殻も今日の紙幣や硬貨、ドルや円も私たちの想像の中でしか価値を持っていません。10円の価値は色や形や素材は全く関係がありません。今私が持っている10円を仮に違う素材で作っても、私の10円は10円のままで100円にはなりません。つまり貨幣の価値は物質的現実ではなく精神的概念なわけです。

貨幣は物質を心に転換する事で機能する

ではなぜこの仕組みが上手くいくのか?
なぜ私たちは難儀な思いをしてまで、貨幣の為に働くのか?
それは私たちが進んでそうするのは自分たちの集合的想像の産物を私たちが信頼してる時です。つまり貨幣に価値がある事を信頼してるわけです。この信頼こそあらゆる種類の貨幣を生み出す際の原材料に他ならないのです。私たちがものを売り円受け取り、それをドルに替えてアメリカになんの不安もなく渡れるのは、そのドルと引き換えにサービスを受け取れると確信しているからです。つまり、貨幣は相互信頼の制度であり、なおかつ、これまで考案されたもののうちで、最も普遍的で最も効率的な信頼の制度なんですね。

以上が貨幣の本質になります。現代にも間違いなく通ずるお金の本質だと思います。お金の本質が物ではない事に気付いただけでも私にとっては大きな一歩で、貨幣は物質を心に転換する事で機能するならば、やはりなんであれ最終的には相手の感情を満たす事を考えなければなりません。私たちが喉から手が出るほど欲しがっているのは、お金という物質ではなく、信頼だったのですね。



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