ゲートボール

大人になること~「20代はおばさんではありません」~

20代はおばさん、そう思っていた。高校生の頃の私は無敵で、一学年上の先輩でさえ「おばさん」と感じるくらい世間知らずだった。

(断っておくが今はそんなこと思っていない。20代がおばさんだったら現在の私は屍かミイラだ←ちょっと言い過ぎ?)。

でもその頃の私は、若いことが当たり前過ぎていつかおばあちゃんになるなんて信じられなかった。まあ今でも想像できないけれど。

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「22歳で死ぬんだ」

高校生の頃、本気でそう思っていた。でも同時に、叶えたい夢があり、結婚もしてみたかった。たくさんの矛盾を抱えていたわけだ。

そんな私に向かって彼はケラケラとわらう。

「その考え古いよ。おれもそう思ってたけど、今はおじいちゃんまで生きたい。ゲートボールをするんだ」

ゲートボールをやりたい同じ年の人にはじめて会った。ああ、なんかそういうのもいいな。ご近所さんと他愛のない話しをしながら、ボールを追う老後なんて夢がある。22歳で死にたいと考えていた自分が恥ずかしくなった。

月日が経ち、くしゃみやあくびをしているうちに22歳は過ぎていった。

ゲートボールをやりたいと言った彼は、20歳を迎えられずこの世を去ったけれど世界はまわりつづける。

大人になりたくなかった私が、大人といわれる年頃まで成長して、ゲートボールをして笑っていたかった彼がこつぜんと消えてしまったのだ。

あの頃と比べて、私はどれくらい大人になっただろうか。よく分からないけれど、何となく気づいたこともある。

大人になることとは「過去を知る」ことではないか?

過去を振り返らない限り、大人になったと気づけない。大人になることは、これだけ人と比べてどうこういわれる世の中にありながら「対自分」でしかない。過去の自分VS現在の自分。それ以外は存在ない。

仮に

「〇〇ちゃんよりも大人になったね」

と意味不明なことをいう人がいたとしても、それは対〇〇ちゃんではなく、やっぱりVS過去の自分なのだ。

ではどうやったら過去の自分より大人になれる?

それは生きて生きて生きること。

死んだら、もっとすてきな大人になれない。

漠然と生きても、たいして成長できない。だから生きて生きて生きる。夢中になって挫折して、わらってないて。ほいほいさっさと叫んで。そうやって生きていくうちに何かを乗り越えて、勝手に大人になっていくのかな。

もちろん大人になるために生きるわけではないけれど、死んでしまったらゲートボールもできないし「20代はおばさん」と豪語していた高校生の自分を叱ることもできやしない。

生きられなかった人のぶんも生きたい。

生きて生きて生きて、ゲートボールをやってわらって。そしてまた生きてい生きて生きて、勝手に大人になっていく。

それしかできないから、生きて生きて生きて生きたい。







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