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反転する宇宙

 その業績で世界のあらゆる賞を受賞し、残るのはノーベル賞のみとなった科学者春馬毛鈍博士はある日助手たちを呼び寄せてこう言った。
「今日君たちをここに呼び寄せたのは、私の最後の実験の手伝いをしてもらうためだ。先に言っておくがこの実験は私がすでに動物で実験済みのものだ。それに我々科学者にとって常識だが、シュレンガーの猫にもあるようにあらゆる実験は推論の果てに可能と結論づけられた事象の実証であるのだ。だから今から行う実験も決して失敗する事はない。それは私が長い推論を経て動物実験を何度も重ね、さらに推論を重ね、そして実験可能と結論づけたものだからだ」
「博士一体それはどんな実験なのですか?」
「それは君たちに何度も話した事だ。君たちは私の話を聞くたびにそんな事が出来たらいいのにと言っていたものだ。それが今ようやく出来たのだよ。試しにマウスの実験の模様を動画に撮ってあるから観るがいい」
 春男毛博士はそう言ってモニターに実験の動画を映し出した。助手たちはその光景に呆気に取られてしまった。
「いいかね。これがマウスから取り出したスピリッツ、つまり我々の思考体だ。もはや脳からも切り離されているから、見たまえ、思考体の切り離されたマウスは筋肉が勝手に動き出して暴れ始めた。これは完全に思考体とネズミの肉体が切り離された証拠だ。そしてこれからが本番だ。私はこのネズミの思考体とコンタクトを取ることに成功した。私はネズミの思考体に信号を送りネズミの思考体と短い会話をした。ネズミの思考体はやはり彼から肉体を切り離した私を恨んでいるようだった。私はそのネズミの思考体をプラズマで作成したブラックホールにぶち込み過去へと送ったのだ。私はブラックホールに取り込まれたネズミの思考体が過去に行けたのか確認するために電磁波をブラックホールに当てて思考体の残像を追った。そして私は重要な事を発見したのだ。思考体は我々の時間とほぼ同じ時間で過去へと進んで行った。つまりネズミの思考体は今まで生きてきた時間とほぼ同じ時間を費やして自分が生まれた頃に還ってゆくのだ」
 この春馬毛鈍博士の大発見に助手たちはざわめいた。まさかタイムスリップを発明したとは。この研究が世界に公表されたらノーベル賞どころの騒ぎではなくなる。しかし彼らは同時にこの発見を恐れた。これが悪しき人間の手に渡ったら、いやそれよりも博士自身が悪用したら。もしかしたら今日ここに呼ばれたのは博士の悪事の手伝いをするためなのか。春馬毛博士は咳払いをしてざわめく助手たちの注意を引きつけた。そして再び話を続けた。
「どうしたのかね。そんな不安そうな顔をして。君たちは私がこの発明を使って悪事をしようとしているとでも考えているのかね。案ずる事はない。君たちも私という人間を知っているではないか。私はご覧の通り科学一筋で社会の事などに全く感心を持たない人間だ。今回君たちを呼んだのは悪事を成し遂げるための実験ではなく、あくまで私の純然たる願いを叶えるための実験なのだ。君たちは私が話した事を覚えているかね?何度も話したじゃないか。私はあらゆる事を成功させてきた。だがたった一つだけ叶えられなかったものがある。それを叶えるためにこの思考体タイムマシーンで過去へと向かうのだ。しかし流石に自分で自分の思考体を肉体から切り離して過去に送るなんて出来る筈がない。君たちお願いだ。私を過去に連れて行ってくれたまえ」
 春馬毛博士はそう言い終えると口を閉じて助手たちを見た。皆博士の予想もしなかった言葉に唖然として言葉すら出ない。まさか博士自身が実験台になるとは。たしかに博士は子供の頃に帰って人生をやり直したいとよく言っていた。その時自分たちは博士のような成功した人間にも満たされないものがあるのだな、と軽い気持ちで聞いていた。だが彼らはその思いがこんなにも深いものだったとは思わなかった。彼らは当然博士を止めた。
「博士が思考体で過去に向かうという事は現在の博士はあのモニターのネズミみたいになるという事ではないですか?つまりこの実験で博士は死ぬのですよ。あなたはそれで本当にいいんですか?」
「かまわない!私は願いを叶えるためだったら現在の名誉も命も全てくれてやる!お願いだ!私を過去に連れて行っておくれ!」
 助手たちは自分たちが尊敬する博士が土下座をしてまで頼み込んでいるのに激しく心を動かされた。彼らは床にへたり込む博士に手を差し伸べて実験を手伝う事を承諾した。

 助手たちにとって実験は辛い作業だった。動物実験でさえ心を痛めずに行えないものなのに、愛する春馬毛博士の絶叫を聞くなんて耐えられる筈がない。今彼らは博士に教えられた通りに博士に電磁波を浴びせ続けていた。そうして長い時間の果てにようやく博士の思考体を取り出せた。彼らは素早く思考体をタイムマシーンに転送する。助手たちは春馬毛博士の思考体に信号を送り切り離しが成功した事を告げた。すると博士の思考体は涙のファルスを震わせて彼らに礼を言った。そして続けて助手たちに別れの言葉を述べた。
「今までありがとう。私はこれから過去へと旅立つ。私の肉体は適当に処分してくれたまえ。世間には私が実験中に心不全で亡くなったと公表してくれ。では早速ブラックホールを発動してくれ。これで君たちとも永遠のさようならだ。もしかしたら君たちは別の次元の現在で再び私と会うかもしれない。その時君たちがこの次元の私を覚えていてくれたら……。ありきたりだが最後の挨拶を言わせてもらおう。今まで私のために助力してくれてありがとう。君たちの事は絶対に忘れない」
 助手たちは号泣しながらブラックホールを発動させた。ブラックホールはたちまちのうちに春馬毛鈍博士の思考体を飲み込んで過去へと誘っていった。

 結末のわかったストーリーほどつまらないものはない。ましてやそれが映画や小説のように都合よく端折られず、延々と続けられたらたまったものではない。今春馬毛鈍博士の前で展開されているのはそのような情景であった。今春馬毛博士は弟子たちに実験の指示しているがその実験の結果はすでに先ほど見たものなのだ。ああ!この実験も成功だ。そして続けてまた実験の成功の結果を見せられる。これは先程の実際の前の実験だ。そして彼はそんな実験続きの日々を乗り越えてようやく目指す過去へと近づいた。ああ!丸々五十年の日々を巡ってようやくここにたどり着いた。彼は今目にしたくない情景を目の当たりにしてハッと目を閉じる。ああ!この無様な結果を変えたくてここまで帰ってきたのだ。もうこんな失敗はしない。今の自分なら容易く乗り越えるだろう。そしてもう一度より良き未来を目指すのだ。春馬毛博士はここで足を止めた。今、春馬毛鈍は高校時代の少年となっていた。彼は同級生の女子に果てしないほど恋をしていた。彼女の自宅を一日中見張り、そして彼女の行動を逐一ノートに書き留めた。彼にとってはこれは愛する彼女を研究するために絶対に必要であった。分析に分析を重ねて、そして過去の失敗を繰り返さないためにさらに彼女を観察してどう告白したら彼女が自分に振り向いてくれるかを考えた。春馬毛にとって彼女こそ人生の全てであり、彼女のために文字通りすぎるが全てを投げ打って長い時間をかけて過去まできたのである。今土手を歩いている自分の前をその彼女が歩いている。どうやら二人きりだ。彼女は後ろにべったりと張り付いている自分の存在に気づかない。彼は高まる旨を抑え、必死に自分を安心させようとした。大丈夫だ。あれだけ彼女を調査して今この時でさえ彼女を調査している。彼女は自分の告白を受け入れてくれる筈、彼女の生体反応がそう語っているのだ。春馬毛少年は勇気を出して彼女に近づいた。その時だった。彼女がいきなり彼の方を振り向いたのだ。

「人のことを毎日付け回しやがってこのストーカーめ!今から警察に突き出してやる!」

 あの時と全く同じセリフだった。あれだけ彼女の生態調査を重ねたのに運命は何も変わらなかったのだ。これでは自分は一体なんのためにわざわざ過去まで来たのだろうか。彼はあの時と全く同じようにその場を逃げ出した。ああ!結局過去をやり直しても何も変わらなかった!その時春馬毛鈍はとんでもないことに気づいた。このまま未来が変わらないとしたら恐らく最後に待っているのは電磁波を浴びせられ続けられる結末ではないか。春馬毛少年は土手で発狂し泣きながら叫んだ。

「ママぁ〜!未来なんか行きたくないよぉ〜!」


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