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続・人情酒場 第二回:再訪

 それから若い客は来なくなりいつもの人情酒場に戻ったものの、あの出来事があってから女将は接客中もどこか上の空で、ビールやおつまみを出し忘れる事も度々あった。いつものようにカウンター席に座っているタコ爺はそんな女将を心配して「女将どうしたんでぃ!」と声をかけたが女将は空返事するばかりだった。そんな女将を見てこれまたいつものように奥のテーブル席に座っているイカ社長はあの時のことを思い出し、やはりあの若い客は女将さんと関係のある人間じゃないかと確信し、そして空気の読めなさすぎるタコ爺をチラチラ見ながらこのバカと心の中で詰っていた。

 ある日の夕方であった。女将は店を開けたが、やはりこんな状態じゃ仕事にならないと思い、今日は店を開くのはやめようと、先ほど戸にかけたのれんを取りに出たときであった。眩しい夕焼けの逆光を浴びながら、この間の若い客が立っていたのである。客ははにかみながらこう言った。
「来てはいけないと思ったんですが、誰かに誘われるようにまた来てしまいました。不思議です。こんな経験初めてです」
 女将は逆光に照らされて立っている彼の姿を見ると、胸が高まり言葉を発する事が出来なかった。背中からの夕焼けで影になった客の顔を見て、彼女はずっと昔の出来事を思い出したのであった。だから彼女はこう言って若い客を出迎えたのであった。
「あいにくですけど、今日は店じまいなんですよ。だけどこの間のお詫びに一杯飲んでらっしゃいませんか?お代は結構ですよ。この間たんまりいただきましたからね」
 若い客は女将のいきなりの誘いにびっくりしてしまった。呆然として女将を見つめていると、女将が彼を見ていたずらっぽく笑いかけてくる。彼はまるで何者かに誘われるかのように女将に向かってうなずいたのだった。
 戸からのれんを取った女将は若い客を店の中に向かい入れると、女将は店の奥の戸を開けて店の奥の自分の部屋へと案内した。若い客はためらったが、女将はニッコリ微笑み、「今日は店じまいなんですよ。お店で電気なんかつけて飲んでたらいつもの客が店を開けろとめんどくさいことになっちまいますよ!」と冗談めかして言った。若い客は女将の冗談に苦笑いし、女将と共に部屋に入ったのである。 
 女将は先に入ると電気をつけ、若い客にちゃぶ台のそばに敷いてある座布団に座るように勧めた。女将の言う通りに座布団に座り部屋を見渡した客は途端に妙な既視感に襲われた。初めて来た場所なのに、なんだか久しぶりに帰ってきた感じがしたのだ。部屋は茶の間のようだったが、天井からぶら下がっている裸電球がぼんやり点いているこの部屋にはテレビはなく、自分の目の前にあるちゃぶ台も幼い頃に遊びに行った爺さんの家でしか見たことはないものだ。奥にはタンスがあるがこれもかなり古い物だろう。なにかいきなり昭和の昔にタイムスリップしたような光景だった。当然若い客にとってはテレビや本でしかお目にかかったことのない光景のはずである。しかし何故こんなにも懐かしい気分になれるのか。客は自分の中から溢れてくるこの感情に戸惑いしばらく放心して部屋を見ていた。
 女将はそんな彼を笑みを浮かべながら眺めている。やがて女将は「お酒持ってきますね」と言うと、立ち上がって店まで酒を取りに行った。店からビンのかすかに擦れ合う音とともに女将の「どこかしら。たしか下の段の奥にしまっておいたはずだけど」と呟く声が聞こえる。そして瓶のかち合う鋭い音がし、続いて女将の「あっ、あったわ!」と妙に弾んだ調子の声が聞こえた。部屋は異様に静かで女将の発する物音だけが異様に澄み切って聞こえる。客は妙な寒気を感じたがそれはこの部屋の雰囲気のせいだけではないような気がした。
 やがて女将が酒瓶と白いお猪口を二つ持って戻ってきた。そしてちゃぶ台の向かい側に座った女将は笑顔でお猪口に日本酒を注ぐと若い客にこう言って差し出してきた。
「どうです?まず一杯」
 客がお猪口を受け取ると女将は急に真顔になって客を見つめて来た。そのあまりの真剣な表情に彼は思わず毒でも入っているのかと冗談を言おうと思ったが、こちらを一心に見つめてくる女将の異様に真剣な表情に客は思わず言葉を飲み込んだ。そして微かな震えを感じながらお猪口を口元に近づけ、その酒をふんわりした匂いとともにグッと飲み込んだのである。
 飲んだ瞬間、まず妙に懐かしいものを感じた。続いて強烈な酩酊がやってきた。その酩酊ととも頭の中からいろんなものが溢れてきた。妙な感じだった。一瞬早くも酔ったかと思ったがどうもそうではない。なんだろうこの感覚は。彼は白いお猪口の中に残るこの妙に透き通る酒を眺めた。そしてもう一度、今度は中の酒を一気に飲み干した。
 飲み干すと、今度は目頭に熱いものがこみ上げてきた。そして頭が熱くなり目の前がぼやけてくる。彼はもう一度酒の味を思い出す。こんな味の日本酒は生まれてこのかた飲んだことがない。しかしこの懐かしい感覚はどこからくるのだろう。彼は我を取り戻そうと頭を振り目の前の女将を見ると、女将は慌てた表情で「大丈夫?」と言ってきた。彼が大丈夫と答えると女将はほっと肩を撫で下ろして言った。
「倒れるんじゃないかと心配しちまったよ。何十年ぶりだったものね……」
「はっ?」


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