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続『人情酒場』

見知らぬ客

「よぉ来たぜ!」と勢いよく『人情酒場』の暖簾を開けた常連客のタコ爺は、さっそくいつものようにカウンターの席に座ろうとしたのだが、しかしその席にはすでに見知らぬ若い男が座っていたのだった。タコ爺はこの見知らぬ先客の登場に腹が立ち、この男を礼儀知らずめと店から叩き出そうとしたのだが、その時後ろのテーブル席のイカ社長が必死な顔で手を降って自分を呼んでいたので、若い男は後回しにしてとりあえずイカ社長のもとへ向かった。

「おい、イカ社長!なんでえ!オイラお前さんに構ってる暇ねえんだぞ!」

 タコ爺は席に座るなりタコみたいに顔を真っ赤にして言い放った。この男はこの居酒屋『人情酒場』の常連だ。安月給のサラリーマンで、飲んだらすぐに顔が真っ赤になるのでタコ爺とあだ名がつけられたのだ。

「まあまあ、抑えて抑えてタコ爺」

 もう一人のイカ社長はこの飲み屋の近所の町工場を経営している男である。彼もタコ爺と同じこの『人情酒場』の常連客で、いつもスルメを食べているからイカ社長とあだ名が付けられた。彼は時たま工員達を連れてくるので飲んだらすぐに酔い潰れるタコ爺に比べたらよっぽどこの店の売り上げに貢献しているのだ。

「で、ありゃなんだいイカ社長!あそこはオイラの特等席だぞ!今日はお前さんとさしで飲みってか!お前さんのイカ臭え臭いを肴に酒なんか飲めるかって!」

 タコ爺の顔がまだ酒も飲んでないの赤くなってきた。イカ社長はカウンター席の女将と若い客の方に首を向けてタコ爺の注意を引き付けてこう言った。

「だけどあの二人を見ろよ。俺が店入った時からあんな感じで黙りこくってんだ。なんか入っちゃいけねえもんを感じてな」

 イカ社長に促されるようにタコ爺もカウンターの女将と若者を見たのだが、なるほど確かにずっと黙りこくっている。タコ爺はあの若い客に張り付かれて女将が困っていると彼女を心配して、若い客から女将を離してやろうと女将に大声でビールを注文した。それを聞いた女将がすぐにビールとグラスを持ってやってきて、いつもの愛想笑いでビールを注いだ。タコ爺は女将を捕まえて、

「あの客はなんでえ!挨拶もねえ!勝手にオイラの席に座る!あんな礼儀知らずは店から叩き出さなきゃ!」

 と大声でこれ見よがしに文句を言った。女将は笑顔ですまなそうな顔をしてこの困った客に対応していたが、カウンターの若い客がタコ爺の文句を聞いていたのか女将の方を振り向いて「やっぱり僕、隅っこの方に移りましょうか?」と申し訳なさそうな顔で言ってきたのだった。すると女将が「あっ、大丈夫ですよ。そのまま座っていてもらって!」と答えてタコ爺に軽く挨拶するとそのままカウンターに戻って行った。タコ爺とイカ社長はその女将の動作を見ていた。その女将の表情からイカ社長はもしかしたらと何か察するものがあったが、タコ爺の手前何も言えなかった。

 女将が戻ってくるなり若い客は申し訳ないと謝った。「自分のせいで店の空気を悪くしてしまって」と頭をかき上げながら客は何度も頭を下げ謝る。女将はそんな客に笑顔で「こちらこそすみませんね。でも大丈夫ですよ。こっちは慣れっこですから。でも普段はいい人だからまたいらして下さいね」とこちらも何度も頭を下げて謝った。そしてお互いに頭を下げ続けてるので二人とも妙におかしくなり笑いがこみ上げてきた。そして笑いが収まった後で女将はお酒は?と聞き、客はしばらく迷った後日本酒を注文してきた。

「あら、日本酒なんて今どきの若い方にしては珍しいですね。お好きなの?」

 若い客は少し照れたような表情で、

「いや、普段は日本酒なんて飲まないんですが、というかこういう古い、いやすみません。こじんまりとした居酒屋に来ることは滅多にないんですが、ここを通りかかった時懐かしいものに誘われて……」

 と喋りだしたが、途中で女将が自分をまじまじとのぞいているので話を止めたのだった。若い客は自分を見つめる女将の視線に照れて思わずカウンターに目を伏せる。女将はえらく美人でしかも若い。そんな女がなんでこんな古くさい居酒屋をやってるんだろうかと客は考え、そしてさっき女将に答えたように、初めて入ったはずのこの居酒屋に妙に懐かしい物を感じたことを不思議に思った。若い客はおそるおそる顔をあげて女将を見た。しかし女将は相変わらず自分をまじまじと見つめていた。

 あんまり女将が自分のことを見つめてくるので客はとうとう耐えきれず女将に聞いた。

「あの、僕の顔に何か気になるとこでもありますか?」

 客の言葉を聞いて女将はハッと客から目を逸らして俯いたが、しばらくののちおずおずと客にこう尋ねたのである。

「……あの、へんなこと聞いちゃうかもしれないけど、誰かに似ているって言われません?」

 女将の思わぬ質問に少しビックリした客であったが、少し考えてから女将にこう答えた。

「まぁ自分は今まで芸能人なんかに似てるって言われたことないですね。でも……とっくに亡くなったうちの爺さんから言われたことがあるんですよ。戦争で亡くなった伯父さんによく似てるって。その人は曾祖父さんの年の離れた兄で陸軍の将校だったらしいんだけど中国で転戦中に流れ弾に当たって戦死した人なんです」

 若い客は話を終えて女将を見ると、何故か女将が涙を流しているのにビックリした。女将は「そうなのね、そうなのね……」と独り言のように言いながらハンカチで涙を拭いている。若い客はいきなり女将が泣きだしたのにビックリし、自分が変な話をしたせいだと思い、申し訳ありませんと何度も女将に謝ったが、女将は客に「いえいえ全て私が悪いんです。ごめんなさいね!」と涙ながらに謝り返してきた。

 タコ爺はそんな二人のやりとりを奥のテーブル席から見ていてとうとう我慢の限界にきた。あの客は女将を口説いて泣かせてやがる!といきなり席を立つとイカ社長の止めるのも聞かずカウンター席の若い客に歩み寄り若い客を怒鳴りつけた。

「おい、このポン助野郎!女将にべったり吸い付いていぢめてんじゃねえや!見ろい!女将がお前さんが嫌だってぇ泣いてるじゃねえか!」

 いきなりタコ爺の乱入に二人は驚き思わずタコ爺を見た。タコ爺はもう顔面真っ赤で頭から湯気が吹き出しそうである。怒りの収まらぬタコ爺は今度は客の目先に指さしてさらに怒鳴りつけた。
「お前さん、いいかい?今後お前さんはこの居酒屋に立ち入り禁止だい!女将がいいって言ってもオイラが許さねえぞ!さあ早く金払って出ていきやがれ!」

 タコ爺のあまりの剣幕に一同みな驚いた。イカ社長はタコ爺の暴走に呆れて頭を抱えた。若い客はタコ爺の剣幕を見て自分がこの店に来たことが悪いのだと責任を感じてしまった。だから万札をその場に置くと女将とタコ爺に謝罪してすぐに店から出て行ってしまったのである。女将はその一部始終を呆然として見ていたが、あまりの衝撃にろくに言葉も発せなかった。

 それから若い客は来なくなりいつもの人情酒場に戻ったものの、あの出来事があってから女将は接客中もどこか上の空で、ビールやおつまみを出し忘れる事も度々あった。いつものようにカウンター席に座っているタコ爺はそんな女将を心配して「女将どうしたんでぃ!」と声をかけたが女将は空返事するばかりだった。そんな女将を見てこれまたいつものように奥のテーブル席に座っているイカ社長はあの時のことを思い出し、やはりあの若い客は女将さんと関係のある人間じゃないかと確信し、そして空気の読めなさすぎるタコ爺をチラチラ見ながらこのバカと心の中で詰っていた。

客との再会

 ある日の夕方である。女将は店を開けたが、やはりこんな状態じゃ仕事にならないと思い、今日は店を開くのはやめようと、先ほど戸にかけたのれんを取りに出たときであった。眩しい夕焼けの逆光を浴びながら、この間の若い客が立っていたのである。客ははにかみながらこう言った。

「来てはいけないと思ったんですが、誰かに誘われるようにまた来てしまいました。不思議です。こんな経験初めてです」

 女将は逆光に照らされて立っている彼の姿を見ると、胸が高まり言葉を発する事が出来なかった。背中からの夕焼けで影になった客の顔を見て、彼女はずっと昔の出来事を思い出したのであった。だから彼女はこう言って若い客を出迎えたのであった。

「あいにくですけど、今日は店じまいなんですよ。だけどこの間のお詫びに一杯飲んでらっしゃいませんか?お代は結構ですよ。この間たんまりいただきましたからね」

 若い客は女将のいきなりの誘いにびっくりしてしまった。呆然として女将を見つめていると、女将が彼を見ていたずらっぽく笑いかけてくる。彼はまるで何者かに誘われるかのように女将に向かってうなずいたのだった。
 戸からのれんを取った女将は若い客を店の中に向かい入れると、女将は店の奥の戸を開けて店の奥の自分の部屋へと案内した。若い客はためらったが、女将はニッコリ微笑み、「今日は店じまいなんですよ。お店で電気なんかつけて飲んでたらいつもの客が店を開けろとめんどくさいことになっちまいますよ!」と冗談めかして言った。若い客は女将の冗談に苦笑いし、女将と共に部屋に入ったのである。 

 女将は先に入ると電気をつけ、若い客にちゃぶ台のそばに敷いてある座布団に座るように勧めた。女将の言う通りに座布団に座り部屋を見渡した客は途端に妙な既視感に襲われた。初めて来た場所なのに、なんだか久しぶりに帰ってきた感じがしたのだ。部屋は茶の間のようだったが、天井からぶら下がっている裸電球がぼんやり点いているこの部屋にはテレビはなく、自分の目の前にあるちゃぶ台も幼い頃に遊びに行った爺さんの家でしか見たことはないものだ。奥にはタンスがあるがこれもかなり古い物だろう。なにかいきなり昭和の昔にタイムスリップしたような光景だった。当然若い客にとってはテレビや本でしかお目にかかったことのない光景のはずである。しかし何故こんなにも懐かしい気分になれるのか。客は自分の中から溢れてくるこの感情に戸惑いしばらく放心して部屋を見ていた。

 女将はそんな彼を笑みを浮かべながら眺めている。やがて女将は「お酒持ってきますね」と言うと、立ち上がって店まで酒を取りに行った。店からビンのかすかに擦れ合う音とともに女将の「どこかしら。たしか下の段の奥にしまっておいたはずだけど」と呟く声が聞こえる。そして瓶のかち合う鋭い音がし、続いて女将の「あっ、あったわ!」と妙に弾んだ調子の声が聞こえた。部屋は異様に静かで女将の発する物音だけが異様に澄み切って聞こえる。客は妙な寒気を感じたがそれはこの部屋の雰囲気のせいだけではないような気がした。

 やがて女将が酒瓶と白いお猪口を二つ持って戻ってきた。そしてちゃぶ台の向かい側に座った女将は笑顔でお猪口に日本酒を注ぐと若い客にこう言って差し出してきた。

「どうです? まず一杯」
 客がお猪口を受け取ると女将は急に真顔になって客を見つめて来た。そのあまりの真剣な表情に彼は思わず毒でも入っているのかと冗談を言おうと思ったが、こちらを一心に見つめてくる女将の異様に真剣な表情に客は思わず言葉を飲み込んだ。そして微かな震えを感じながらお猪口を口元に近づけ、その酒をふんわりした匂いとともにグッと飲み込んだのである。
 飲んだ瞬間、まず妙に懐かしいものを感じた。続いて強烈な酩酊がやってきた。その酩酊ととも頭の中からいろんなものが溢れてきた。妙な感じだった。一瞬早くも酔ったかと思ったがどうもそうではない。なんだろうこの感覚は。彼は白いお猪口の中に残るこの妙に透き通る酒を眺めた。そしてもう一度、今度は中の酒を一気に飲み干した。

 飲み干すと、今度は目頭に熱いものがこみ上げてきた。そして頭が熱くなり目の前がぼやけてくる。彼はもう一度酒の味を思い出す。こんな味の日本酒は生まれてこのかた飲んだことがない。しかしこの懐かしい感覚はどこからくるのだろう。彼は我を取り戻そうと頭を振り目の前の女将を見ると、女将は慌てた表情で「大丈夫?」と言ってきた。彼が大丈夫と答えると女将はほっと肩を撫で下ろして言った。

「倒れるんじゃないかと心配しちまったよ。何十年ぶりだったものね……」

「はっ?」

 若い客は女将の言ったことが分かりかねて思わず聞き返してしまった。それを見た女将は少し慌てて取り繕うとしてこう言った。

「いえいえ、こっちの話なんですよ。ごめんなさいね」

 そう言って悪戯っぽく笑う女将の表情に客は異様なもの感じ、ここから去ることも一瞬考えたが、しかしどうにも立ち去ることは出来かねた。このまま女将を残して去っていったら女将は悲しむだろうし、それよりもこの部屋自体が彼に立ち去ってはいけないと言っているような気がしたのだ。しかし不思議な女である。と客は目の前の女将について考える。一体彼女は何者なのだろうか。自分とさほど年の変わらぬはずなのに妙に古めかしい喋り方をする女だ。しかしそれが全く自然で、彼女の存在自体もこの異様に古めかしい部屋に違和感なく収まっているのだ。客は再び女将を見た。女将は妙に寛いだ格好でおちょこで酒を飲んでいる。そして飲みながらこちらをチラチラと見ている。女将と思わず目があってしまったので、客は目を伏せたが、女将はその男の態度にクスリと笑いこう言ってきた。

「あの……この間おっしゃった事覚えてます?」

「この間って、えっとなんでしたっけ?」

「あなたのお爺様の伯父様のことですよ」

「僕が爺さんの戦死した伯父さんに似てるっていう?」

「そう」

曾祖伯父

 客はそう尋ねる女将の表情が真顔になっていることに気づいた。しかしなんで曾祖伯父のことなんか尋ねて来るのだろうか。酒の肴にでするにはちと重すぎる表情だ。そういえばこの間この店で曾祖伯父のことを話したとき女将は何故か急に泣き出したっけ。

「あなたのお祖父様、伯父様のことでなにかお話されませんでした?」

 しかしそんなに真面目な顔で問い詰められても、自分は爺さんから曾祖伯父のことなどろくに聞いておらず、ただ覚えているのは自分が亡くなった曾祖伯父によく似ていると言われたことだけであり、だいたい曾祖伯父の写真さえ見ていないのだ。だから客は女将に正直に曾祖伯父について知らないと言おうとして口を開いた。

「いえ、残念んながら爺さんの伯父さんについては……」
 
 そう口を開いた瞬間である。何故か客の頭の中に亡くなった爺さんが浮かんできた。記憶の中の爺さんは彼に向って戦死した曾祖伯父について熱く語っている。それは生きていた頃の爺さんから全く聞いたこともない話だった。彼は酒に酔ったせいで頭がおかしくなってしまったかと、かぶりを振って記憶の中の爺さんを追い出そうとしたが、爺さんの話を聞いているうちに何故か胸に熱いものがこみ上げ、いつの間にか熱に浮かされたように女将に向かって喋っていた。

「爺さんから聞いた話ですけど、曾祖伯父は北国のすごく貧しい家に生まれたそうです。小作人一家の長男で幼いときからすごく責任感のある子供でした。彼の尋常小学校の頃の成績は非常に優秀で県内で一位でした。しかし曾祖伯父の家には彼を地元の中学校に進学させるだけのお金がなかっのです。彼は両親と弟たちのためを思って進学を諦めて百姓になるつもりでしたが、しかし、成績優秀な彼がこの田舎に埋没するのを惜しんだ学校の教師達が、地元の名士達に頼み込んで彼を東京の陸軍幼年学校に推挙してくれたのです。陸軍幼年学校なら学費はタダだったし、陸軍に入れば安定した給料も入るので、彼は教師達の提案を迷わず受け入れました。そしてもともと成績優秀であった彼は入学試験に難なく合格し、故郷の期待を一身に背負って東京へ向かったのです。彼は幼年学校でも際立って成績が優秀であったので、士官学校にも問題なく進学しました。そして士官学校を卒業して陸軍に入るとその才能を見込まれて順調に出世していきました。故郷からはオラが村の出世頭と讃えられ、彼もその名に恥じぬよう懸命に働いていましたが、そうして過ごしていると自分の中に何かが満たされぬ思いがふつふつと募っていくのを感じるようになりました。幼年学校に入学するために上京してからずっと一人で暮らしていた彼はずっとこの大都会で孤独でした。それでも彼は懸命に働いていましたが、ある日突然彼に支那への異動の辞令が出たのです。当時支那では支那事変などでかなりきな臭い状況でしたので、曾祖伯父は何故自分がと呆然とし、そして生まれて初めて死というものを間近に考えたのです。そして彼は今までお国に捧げてきた自分の人生というものを改めて考えました。しかし、そうやってずっと考えているとだんだん気が滅入ってきます。だから曾祖伯父は気分を紛らわすために、勤務が終わると街の散策をするようになりました。そんなある初春の夕方のことです。彼が街の川べりにある新しい居酒屋の前に足を止めたのは」


 ここまで話した時客はハッと口をつぐんだ。彼は口から出任せを地で行くような、このあまりにでたらめな話がなぜ自分の口から湧いてくるのかとビックリし、そしてこんなでたらめ話をしてしまった事に猛烈に反省して、慌てて冗談だと打ち消そうとして女将を見たのだが、女将は顔を震わせ食い入るように自分を見ていることに気づいて動揺した。その女将の表情は明らかに曾祖伯父の話を続けることを催促していた。彼は女将を見た途端、突然自分がなにか開かずの扉を開けるような気がして身震いがしてきた。だが女将の切羽詰まった表情を見ると、一旦話し始めた、この自分の頭のどこから出てきたのかわからない、デタラメ話を冗談だと打ち切ることはためらわれた。それどころか彼女の顔を見ると早く話の続きをしてやりたい気すらしはじめた。すると女将が静かにお猪口を取り出し酒を注ぎはじめた。そしてすっかり固まっている客に向かって差し出して言った。

「まだ……話は終わってないのでしょう。続きを聞かせてくださいな」

 客は女将から再び出されたお猪口を震える手で取り、今度は一気に飲み干した。彼はさっき飲んだときのような頭がぼやけるような熱いものを感じたが、それ以上に今話しを再開しようとしているデタラメ話の情景が異様な現実味を帯びて自分に迫ってくるので息苦しくなった。しかし、彼はそれでも何かに操られるようにまた話をはじめた。

「その日も曾祖伯父は勤務後の散策をしていました。街は綺麗な夕焼けで、彼はこれが日本で見る最後の夕焼けかも知れぬと、時折立ち止っては空を眺めていました。それから古ぼけた飲み屋街に入った彼は、目先に真新しい小さな居酒屋があることに気づきました。他の居酒屋の前には開店前にもかかわらず人が並んでいるのに、その店の前だけは、おそらく新しい店だからでしょう、店の前には人っ子一人いませんでした。彼はその真新しい居酒屋に近づいた時です。その飲み屋の戸が開き、そこから一人の若い女性が出てきたのです」

 突然瓶の倒れる音がした。それで我に返った客は何事かと話を止め、ちゃぶ台を見た。どうやら女将が自分の飲んでいた徳利を倒したようだった。客は女将に大丈夫かと声をかけようとしたが、女将の異様な態度に思わずぎょっとした。女将は体を震わせ、胸に手を当てながら息を吐いていた。まさか発作かと思った客は、彼女に駆け寄るために立ち上がろうとしたが、その時、女将は手の平を彼に突き出し、そのまま座っていろという身振りをした。それから彼女は続けて客に言った。

「私は大丈夫だから、話を続けてくださいな。聞きたいんですよ、話の続きを」

 客は自分がなにか底なし沼のようなものに埋まっていくような感じがしていた。もう胸まですっかり埋まり容易に抜け出せそうにない。女将に促されるままこのまま喋り続けていたら、もう完全に底なし沼に沈んでしまう気がした。だが喋らないとここから抜け出せないような気もしてきたのだ。女将の表情は明らかに自分がこの話をすべて語り尽くすことを望んでいるし、自分もまたこの話をすべて女将に話さなければならぬような気がしてきた。彼はいつの間にかこのデタラメ話を真実だと思い始めてきたのである。

「出てきた女性と目があった時、曾祖伯父はその人の美しさにハッとして立ち止まりました。するとその女性は彼に近づいてきてニッコリ微笑みながら言いました」

「あら、飲みにきたの?よかったらうちにおいでよ!開店したばっかりでなにもないけどさ、風情はあるんだよ!」

 女将の突然の一言に驚いた客は思わず話を止めて女将を凝視した。その一言は話の中の酒場の女性が曾祖伯父にかけた言葉と全く同じであったからだ。そんな客に向かって女将はほんのり赤く上気した顔で微笑み、彼に話の続きを促す。「お邪魔しちゃってごめんなさいね。さあ続けて」

「曾祖伯父は結局その女性に促されて居酒屋に入ることなりましたが、入った瞬間、中に彼女の他に誰もいないことを不思議に思い、彼女にこう尋ねました。『店主さんはどこにいるんですか?』それを聞いた女性は含み笑をしてこう言いました。『あら、店主は私ですよ!このお店、今日開店なんです。そしてあなたはこの店最初のお客さん。店持ったの初めてだからいろいろとご不便かけるかもしれないけど勘弁してね』そう言って戸を閉めると女性ははにかんだような笑みを浮かべて厨房の中へ向かいました。彼は女性の言葉に驚いて思わず彼女の後ろ姿を見つめました。彼は女性を売り子だと思っていたのです。まさか自分と同世代、おそらく二三才下であろう女性がこうして店を構えているとは思わなかったのです。彼がそうやって店の中で立っていると、女性が厨房の中の女性が彼に笑って言いました。『あら、いつまでそうやって立ってるんですか?早く座ってくださいな。ここ空いてますよ。まあどこでも開いてるんですが』彼は女性に促されるままに、カウンターの女性の向かい側に座りました。『いやあ、びっくりしたなぁ、まさかあなたが女将だなんて!僕はてっきり売り子さんかと思いましたよ!』と曾祖伯父は席に座るなり思わず口走っていました。言い終わった途端、ハッと口をつぐんだ彼をみて女将が笑いました。そんな女将の笑い顔を見ていると彼も緊張がほぐれてきました。そんな彼に女将が『いいお酒があるんだけど飲むかい?』と声をかけてきました。彼はうなずき……」

「そして一気に飲んだんだよ。あの人飲めないのに無理してさ!」

 女将の突然の言葉に客は動揺し一言「そうですね」と言うだけで精一杯だった。女将は話を続けてきた。

「まるでさっきのアンタと一緒だったよ。あの時のあの人。それからちょいと介抱して、それから水を飲みながらお互いの身の上話をしたのさ。で、聞いてみたらお互いビックリしちまったんだよ。二人共おんなじ国の出身じゃないか。しかもほとんど隣町で育ってるんだ。でもあの人は子供の頃に東京に出ちまったんだよね。もしあの人がもう少し地元にいたらあたしとも会えたのかもしれないね。あの人は私に同郷のよしみを感じていろいろ話してくれたんだ。村の期待を背負って東京の陸軍幼年学校に進学したってことから、それからの東京生活でずっと孤独に暮らして来たこと。それとあの人真面目な人だったからこういうところは全く初めてだってこと。今じゃ軍服来てると石投げられるから街中で軍服なんて着られないってことも聞いたね。私あの人がそう話している表情見てさ。この人ホントに今まで話し相手がいなかったんだなって思ったよ。だってそう話しているあの人はさ、本当に安心した顔してたんだよ。それは私も同じだった。私もあの人の話を聞いているうちに、店やってるんだって事をすっかり忘れちまって、いつの間にか自分の事をいろいろ話しちまったんだよ。家が貧しいから東京に身売りされてさ。運のいいことに娼婦にはならなかったんだけど、それでも奉公に出された店の主人や番頭に酷いいじめを受けてさ。それでも私負けじと頑張ったんだ。さっきも言ったように娼婦にはならなかったけど、それに近いことはやったよ。というよりやらなくちゃ暮らしていけなかったんだよ。私その時酒の勢いに任せたのか知らないけどみんなあの人に喋っちまったんだ。そしたらあの人、とても優しい目でさ。私を見てくれて『大変だったんだね』って慰めてくれたんだよ。そうして全部話したらスッキリした気分になって、それからしばらく互いの顔を見つめてたね。そして別れ際にあの人がまたお酒飲みたいって言いだしたんだ。だけど私はまた倒れちまわないかおっかなくてさ。でもあの人は飲みたいってせがんでさ。しょうがないから『アンタ下戸なんだからそこにぶっ倒れても知らないよ!』って言って飲ませたんだよ。それからあの人は店から出ていったんだけど、正直あの人がまた来るとは思わなかったよ。なんてったってあの人は将校じゃないか。お国を守るって大事な仕事がある人だ。私は今夜のことはいい思い出にするから、アンタは忘れてお国のために尽くしなさいよって、あの人の事は記憶の隅に置いといて店に出てた。開店の時は客はあの人一人だったけど、しばらくするとだんだん客が入るようになって、知らず知らずのうちにあの人を忘れそうになってた夜だった。あの人が店の前に立ってたんだよ」

「彼はあなたにずっと会いたかったんですよ。はじめて自分とわかり合える人が出来たんですから!」

 客は我知らずに興奮して言った。自分でもなぜだかわからない衝動に押されての行動だった。しかし何故なのか、何故自分はあったことのない、そして聞いたこともない曾祖伯父の事を口からでまかせのごとくペラペラと喋り、そして自分と同じ年頃の若い女将が何故一世紀近くも前に死んだ曾祖伯父をまるで恋人かなにかのように話すのか?そして何故自分はその女将に向かって曾祖伯父の心情を代弁するかのように話すのか?彼はやはりアルコールのせいかと今更ながら思った。だが彼の意識は明朗とし、女将といるこの部屋の隅々までハッキリと見通せる。しかしいまここで女将に向かって喋っているのは本当に自分なのだろうか。誰かが自分の体を使って喋らせているのではないか。しかしそうは思っても口が勝手に動きもはや止められなくなってしまった。

「曾祖伯父はあなたにどうしても会いたかったのです!初めて自分が心許せる相手に出会った。そしてあなたはとの出会いは彼に今まで味わったことのないものを与えました。それは恋です!」

 女将は客がそこまで言った瞬間、ハッと息を止め客を凝視した。客と、遠い記憶の男が徐々に重なっていく。そうなのだ。あの時あの人が暖簾をくぐって現れた時私も……。

「そうよ、私もあの人が暖簾をくぐって再び私の元に現れた時、私、なんてバカな人なんだろうって思っちまった。このまま忘れられると思ったのにって。今から思えば私も最初からあの人に恋をしていたのよ。でも素直になれなかった!私は男には騙され通しだったから!その時は他のお客さんもいたからロクに話が出来なかったね。だけどあの人は帰り間際に言ってくれたよ。また来るって!」

「そうでした。曾祖伯父もそう約束したんです」

「それからあの人は何度も来たんだよね。だけど店の方が繁盛しちまってあの人の相手をしてあげられなかったし。やっぱりあの人に対する遠慮があったんだよ。私みたいな女があの人の人生を狂わせちゃいけないってね」

「だけどそのことが帰って曾祖伯父を先走らてしまった。というより彼には時間がなかったのです。彼はまもなく支那へ異動しなくてはならなかったからです」

初夜

 女将は客の話を固唾を呑んで見守った。そして彼の話している男の心情を思った。客は自らの話に興奮してもはや止められぬとばかりに語り続けた。
「支那への異動日の三日前の夕方です。引き継ぎやその他諸々の準備などせねばならぬから、この日しか街を出歩く暇はありませんでした。だから彼は女将に別れを告げようと勤務が終わるとまっすぐ女将の元へ駆けつけました。できれば他の客がいない時間を狙って二人きりで別れの酒を飲みたかったのです。店の前に来てみると、まだ開店前で人気などありません。曾祖伯父はそのまましばらく店が開くのを待っていましたが、その時女将が開店準備に暖簾を持って店の中から出てきて、その瞬間彼は彼女と目があったのです。初めて出会ったときと同じように」

「私も覚えているよ。あの人も私と初めて出会ったときみたいに背中に夕焼け背負ってね。顔が影になってたんだ。私、影に隠れたあの人の真剣で何かいいたげな表情を見てたら、自分でも感情を押さえられなくなってさ、すぐにあの人を中に入れて店閉めちまったんだ」

「曾祖伯父はあなたには絶対別れの挨拶をしなければいけないと思っていたんです。そして彼女に向かって自分の気持を告白するつもりでした。自分は死ぬかもしれぬ身。どうせ会えぬのなら心残りなきよう自分の気持ちを伝えてから旅立っていきたい。そう考えて彼はあなたのもとに来たのです」

「そう、あの人は店の中に入るなりいきなり言ったんだ。自分が明後日に支那に行くって!私それ聞いて動揺しちまったんだよ!そしていきなり去ろうとしたから私慌てて止めたんだ。ちょいと、そんなに慌てないで一杯ぐらい飲んでいきなよ!って」

「彼は怖かったのです。告白すると決めたはいいものの。いざ告白するとなると、全く初めての経験だったし、それに自分の人生に彼女を巻き込んではいけないという多少ヒロイックな心情ももたげてきて、それであなたの元を立ち去ろうとしたのです」

「私はあの人が立ち去ろうとした時、この人を行かせたら二度と会えなくなるって思ってそれで慌てて止めたんだ。離したくなかったんだよ!あの人だけは!」

「あなたが呼び止めた時、彼はそのあなたの顔に必死な表情を見て思わず立ち止まりました。その時彼はあなたの表情に自分と同じ心情を感じました。二人にしか分からぬ心を。彼はあなたに日本酒を一杯たのむと、差し出されたおちょこを飲み干して一気に自分の気持をぶちまけました。『あなたに恋しています』と!」

 客がこう言った瞬間、聞いていた女将はいきなり腹を抱えて笑い出した。そのまま笑い転げた後、ようやく笑いが治まりかけたときに客に向かって言った。

「ゴメンよ。笑っちゃったりなんかして!でも可笑しいだろ!わたしゃ女学生じゃないんだよって!まあ愛も恋も一緒だけどさ。でも辺だろ水商売の女に恋とかさ。あんときも笑っちまったよ!おかしくてさ。あの人は笑ってるあたしを見てなんだか分からず動揺しているの。私すぐに気を取り直して言ったよ。私もアンタが好きだって。そう言ったらあの人とても優しい顔してさ『ありがとう』って言ってくれたんだ。その顔を見てたら私の中の思いが抑えられなくなっちまって、自分でもダメと思いながらついあの人に言っちまったんだ。『もうちょっと時間あるかい?よかったら奥に上がりなよ』それからあの人を私の部屋に入れて二人で酒を飲んで、一緒に布団で寝たんだ。あの人の胸は広くて暖かくて私甘えてすっかりグースカ寝ちまった。そして夜中に目を覚またんだけど、あの人が隣にいないんだ。私はあわてて部屋の中を見渡すと、あの人窓開けて桜なんか見てるじゃないか。私が寒いから布団の中に入りなよって言ったら、『あなたもご覧よ。隅田川の夜桜が綺麗だよ。それに僕の隣に入れば寒くないじゃないか』とか言うんだよ。さっきまで何も知らなかったくせに生意気ねって思いながらも、でもあの人が愛しくて結局その夜はあの人の肩に抱かれてずっと夜桜を見ていたんだ。……ちょいとアンタ何を黙りこくってるのさ!女にだけこういう事を喋らすもんじゃないよ!」

「す、すみません!彼は恋愛に関しては本当にうぶだったのです。でも彼もあなたと同じ気持ちでした。この大都会で心が通じ合う人とやっと出会い、そしてその人と心も体も通じ合ったのです。この夜が彼の人生にとって一番幸福な瞬間でした」

「二人で布団に入っているときさ。あの人は私の家族の事を聞いてきたんだよね。今も故郷に住んでいるのかって。私はいないって言ったんだ。知ってたからね、父ちゃんも母ちゃんも私を売った後また借金こさえてさ。結局村を夜逃げしたって事を。それを聞いたあの人は残念だって言って、それからこう言ったんだ。『あなたの両親に会えると思ったのに』ってさ。私がびっくりして聞いたら、あの人支那から帰ってきたら私を自分の両親に会わせたいから、自分もあなたの両親に会いたいと思ったとか言ったのよ。バカじゃないかと思ったよ!たった一回寝たぐらいで何そんなに舞い上がってるのさって。私はそんなことはおやめよって言ったんだ。一時の感情に惑わされて自分の将来を誤っちゃいけないよって。したらあの人はこう言ったんだ」
「僕は一時の感情になんか振り回されてはいません。あなたと出会った時からこの人が自分の運命の人、この人となら一生添い遂げることができると確信したのです!」

 突然の客の一言を聞いた女将は驚愕して思わず客を見た。それはまさにあの時あの人に言われた言葉だった。間近に見た客の顔がますますあの人と重なっていく。その顔を見ていると自然と涙が溢れてくる。彼女は目の前にいる客ではなく、その向こうにいるあの人に向かって語りかけていた。

「私あの時アンタに言ったんだよ!バカ、そういうのを一時の感情に惑わされてっていうんだよって!でも嬉しかったよ。ホントにアンタとだったら一生添い遂げられるような気がしたんだよ!だけどアンタは……」

再会

 客は話の続きを始めるのが辛かった。これからの曾祖伯父に起こった出来事は女将は知るはずないだろう。それを聞いた女将の心情を思うと話すのが辛かった。だが頭の中の人間が早く喋れとせっついている。喋らねばなるまい。おそらくそのために自分はここにいるのだから。

「彼は明朝女将に向かって敬礼しながら自分は必ず帰ってくると誓い、そして支那へと旅立って行きました。そしてそこからあなたに何度も手紙を書きました。あなたは覚えていますか?」

「覚えているどころじゃないよ!私ちゃんとあの人の手紙は持っているんだ。ちょいとお待ちよ」

 そう言うと女将は立ち上がって奥の部屋に行った。そして古い封筒を何枚か持って戻ってくると、客の目の前で封筒から曾祖伯父の写真と手紙を広げてみせた。そこで客ははじめて爺さんや、この女将から自分に似ていると言われた曾祖伯父の姿を見たのであった。確かに自分そっくりの男だ。そして手紙を読むと何故か当時の情景がありありと浮かんできた。支那の砂埃舞う街の中で女将を思う曾祖伯父。同僚たちの誘いを断って一人女将を思っては手紙を書いていたのだ。彼は手紙を読んでいるうちに目頭が熱くなりいつの間にか嗚咽していた。

「ホントにマメに手紙を書いてくれるもんだから、こっちも手紙を出したかったけど、出せなかったのが辛かったよ。あの人は返事は書かなくていいって書いてくれたけど、それでも書きたかった。だけど私が手紙なんかだしたら検閲に見つかってあの人がどうなるか分からなかったしそれでよかったんだろうね。それにしてもどうして手紙があんな厳しい検閲の中で通ったもんだね。家族への手紙じゃないし、傍目から見れば水商売の女への手紙じゃないか。もしかしてあの人が検閲にでも働きかけたのかい?」

「違います。彼は何も考えてなかったんですよ。ただあなたへのことだけを思ってひたすら手紙を書いていただけなんです。異国の地にあった彼はそうやって手紙を書くことであなたのつながりを確かめていたんです!」

「呆れたね。下手したら軍法会議にかけられるのかもしれないのに!ホントに何も考えていないんだから!」

 客は女将の言うことにうなずきながら聞いていたが、やがて涙を拭って女将を見た。女将も泣いていた。彼は女将の顔を見つめて話を続けてよいか目で問うた。女将無言でうなずいた。

「そうして何事もなく一年が経ち彼は軍務地を異動しましたが、それでもあなたに向かって手紙を書き続けました。当時はまだ日中は全面衝突しておらず、彼も前線部隊ではなく後衛の事務機関に勤めていましたので命の危険からは常に守られていたのです。そして彼に内地への帰還の辞令が下りました。彼はそれをすぐあなたに報告するために手紙を書いたのです」

「えっ、そんなことあの人は手紙に書いて来なかったよ!あんた誰の事を言ってるんだい?」

「確かに彼は手紙を書いたのです!だけどそれは決して出される事はなかった。いや出そうと思ってもその時彼は……」

「どうしたんだい!早くお言いよ!」

「彼があなたへの手紙を書き終わって一休みしようと窓を見ると、そこにはあたりを埋め尽くすものすごい数の兵隊が彼の方へ向かってくるのが見えました。あたりに銃声が響き渡る中、彼は書き終えたあなたへの手紙を持って短銃を片手に部屋から逃げようとしました。しかし部屋を出た瞬間……」

「やめて!それ以上話さないで!」

「……部屋の扉を開けた瞬間です。どちらかが打った流れ弾が彼のこめかみを貫いたのです!」

 女将はそれを聞いた途端「ああ!」と絶叫すると号泣して転がりまわった。

「薄れゆく意識の中で彼はあなたに対して何度も謝りました。すまない、あなたのところに帰るつもりだったのにこんなことになるなんて!あなたと一生を添い遂げるつもりだったのに!」

 そこまで言い終えると客も号泣してその場に泣き伏した。無念の思いを吐き出すが如く声の限り絶叫した。女将は泣き伏す客の隣に座りその体を抱きして言った。

「私はあなたがいたところで事件が起こったのを知って、色んな所にアンタが生きているか訪ねたんだよ!でも全員死んだって聞かされてさ。絶望に泣きくれたよ!でも私はこころのどこかでアンタがひょっこり帰って来てくれるんじゃないかって信じていたんだ!東京大空襲で店ごと爆破されても、戦後この街がすっかり変わっちまっても、私はずっとアンタを待ち続けていたんだ!アンタ……私の目の前にいるのはアンタなんだろ!」

 男も女を抱きしめて言った。

「心配かけてゴメン。君を探してずっと暗い闇の中を彷徨っていたけれど、ようやっとこの『人情酒場』を見つけることが出来たんだ」

 そして男は立ち上がり敬礼をして女に向かって言った。

「本官只今支那より戻りました!」

「バカだね。今はもう昭和の時代じゃないんだよ!そんな古臭いことするんじゃないよ!とりあえず挨拶はしないとね」

 そう言って女は男から身をはなすと足を揃えて座り深く静かに頭を下げて言った。

「おかえりなさいませ。長いお勤めご苦労さまです」

夜桜 

「どうせ今夜は泊まってくんだろ!もう風呂は沸かしてあるから入っちまいなよ。相変わらずの五右衛門風呂だけど入ってみるとなかなか気持ちのいいもんさ!寝巻も用意したからちゃんと着るんだよ!」

 女がそう急かすので男は風呂場に向かった。そしてゆっくりとお湯に浸かった。久しぶりの風呂だった。彼は今やっと帰るべきところに帰ったと実感した。そして体が温まったのを感じたので風呂から上がり女が用意した寝巻を来て女のいる茶の間に戻ろうと扉を開けた瞬間、女が扉の後ろに立っていたのでびっくりした。女は彼に向かって、「私も風呂に入るんだ。アンタは寝室で待っておいで」と言った。そして彼が寝室へ行こうとするのを呼び止めていたずらっぽく微笑みながら言った。

「アンタ、絶対に覗くんじゃないよ!」

 男は女の言う通り寝室で女を待っていた。ここも彼にとって久しぶりの場所だった。たった一度しかこの部屋には入ったことがないのに、今も隅々と女の透き通った肌とともに思い出せる。こうしていると本当に帰って来たんだなと実感し目から熱いものがこみ上げてくる。そして彼が部屋を見渡していると、障子がパタリと開いた。風呂から上がった女が入って来たのである。男は入ってきた女のその寝巻を着た姿にハッとした。何もかもあの時のままだ。自分が闇の中を延々と彷徨っているときも、この女は自分を信じてここでずっと待ってくれていたのだ。彼は立ち上がり、女を抱きしめようとした。しかし女は彼の腕をすり抜けると、窓を開けてこう言ったのだ。

「ずっとアンタに見せたかったんだ。ごらんよ、きれいな夜桜が咲いてるよ!」

 久しぶりに見る桜だった。夜の中に咲く桜はその美しさを一層際立たせている。しかし全く桜の美しさは変わらない。周りの光景は唖然とするほど変わっているのに、桜だけはあの時のままだった。男はそばの女の肩を抱き寄せた。女はその男に向かって囁いた。

「どう?全く変わってないでしょ。多分この桜もアンタの帰りを待ってたんだよ」

 二人はそれからしばらくの間肩を寄せて桜を見ていた。

その後

「どうでい、女将さん、その後の調子は!ちったあ元気になったかい?」

 常連客のタコ爺いつものようにカウンターに座って、さっきから女将に向かって喋りかけている。彼は女将が一週間店を閉めている間、ずっと女将が心配でたまらず、毎日店の前に立っては見舞しようかと考え込んでいたのだ。元気の出るものはこれしかねえと酢だこを持って、店の戸を叩こうとしたが、しかしいくら何でも酢だこじゃいかんだろうと思い直し、そのまま店を立ち去り酢だこをもったまま家にかえった。そうして今日こそ見舞いをするぞと意気込んで来たらなんと店が開店しているではないか。タコ爺は喜んで調子よく「待っていたぜ、この時を!よう、タコ爺のお出ましだい!」と勢いよくのれんを開けて登場したのであった。すでに店の奥の席で飲んでいたイカ社長は相変わらずのタコ爺のウザい態度に呆れ果て、奥で一人でスルメをかじり酒を飲みながら、女将とこの間来た客の青年のことを考えていた。女将はあの青年とどういう関係なのだろう。二人共同じ年頃だし、俺たちにはわかんねえ話もあろうなと女将とカウンターのタコ爺を見ながら想像を巡らせていたら、そのタコ爺が女将に向かって青年のことを聞き出したのだ。

「そういや、女将。あの若えポンスケ野郎は現れなかったかい?あの野郎!女将にまとわりついてまるでストーカーみてえじゃなかったかい? そうか、女将が店を休んだのもあのポンスケ野郎のせいだな!チキショウ! あの野郎今度会ったら警察に叩き出してやる!」

 イカ社長はこのタコ爺の空気の読めなさに頭を抱え、女将が傷つかないか心配し、タコ爺を自分の席に連れ戻そうと立ち上がりかけた時だった。女将がタコ爺に向かって笑顔でこう答えたのだ。

「心配しなくて大丈夫ですよ。あの人は二度とここには来ませんから!」

「へえ、女将さんやるねえ警察にでも訴えたのかい?で、あのポンスケ野郎は今どこにいるんだい?留置所か刑務所かい?」

 それを聞いた女将は目を細め、タコ爺に微笑んで言った。

「さあ、どこにいるんでしょうね」

 イカ社長はそう言って眩しい笑顔で微笑む彼女の幸せそうな表情に、もしかしたら店を休んでいる間女将はあの青年とずっといたかもしれないと想像して何故か娘の幸福を祝う父親のような気分になった。タコ爺はその女将の返答を聞くと安堵のため息をもらし、上機嫌になってガハハと大口で笑うと、例の赤ら顔でニッコリして酒を注文する。

「女将、もう一杯!」

《完》
 


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