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無縁坂

 昼下がりの無縁坂は鬱々とした曇り空が名前通りの陰気さを醸し出していた。坂といいながらさほどの傾斜のないところだが、ただ無縁と名の付くように人は殆ど通っていない。あたりには新築のマンションや住宅が立ち並んでいるが、そこから人の出てくる気配はない。まわりの公園や繁華街の喧騒からすっかり取り残された場所。それが無縁坂。

 今一人の男がこの無縁坂を歩いていた。手に持つのは森鴎外の『雁』。学生ではないし、文士を気取っているわけでもない。『雁』を買ったのは上野の近くにあるブックオフ。ふと立ち寄り棚の文庫本を見ていた時近くに無縁坂があるのを思い出した。無意識で『雁』を手に取ってそのまま店を出ようとして鳴り響いた警報。気づかなかったアピールでどうにか警察のご厄介になることを逃れて今無縁坂を歩いている。

 ブックオフの店員に買わなきゃ通報するぞと脅されて買わされた『雁』。まさにガンだな。オマエさえ手に取らなきゃムダ金使わずに済んだのに。だが思い出すのはこの小説に書かれていた情景。坂の上にある少し広い屋敷。その屋敷の窓から自分を見つめる女の白い顔。だが俺は惚れた張れたにはうんざりさと気取って本をポケットにしまい込んだ。クールでいる事は悪い事じゃない。江戸の粋なんて俺にはガラじゃない。俺は色欲に夢中になる程バカじゃないのさ。

 無縁坂を登り切ったあたりで男は足を止めて周りを見渡した。特に何の変哲もない風景。鴎外の生きた明治の頃だったら多少情緒のある光景がここにあったかもしれないが、今は見る影もない。ここはただの無縁坂。窓から自分を眺める女などおらず、道行く女もいない。昔『雁』を読みながらイメージした情景。下駄をカタカタ鳴らして歩く自分と向かい側からやってきた女。だが二人は言葉も交わさずにすれ違う。所詮二人は他人。一生会う事はないぜ。ここはただの無縁坂。今そんな幻想を抱くのは野暮ってものさ。

 男は再び歩を進める。だがその時だった。ふと前を見ると白いシャツと黒いパンツをはいた女がこちらに向かってきたのだった。男は女を見てポケットから先ほどしまい込んだ『雁』を取り出した。まさかこの坂で昔イメージした情景が再現されるとはね。男は女から目を背けクールに通り過ぎる。ここは無縁坂。人々はただすれ違うだけさ。しかし女は男を呼び止める。男は驚きのあまり立ち止まる。おい、ここは無縁坂だぜ。声をかけるのは野暮ってものさ。女は何故か男の名前をフルネームで呼んでこう言った。

「本野島男さん、あの私ブックオフのものです。先ほどあなたが万引きしようとして見逃す代わりに買ってもらった森鴎外の『雁』なんですが、後で頂戴した金額を確かめたら五円と十円を見間違えていたので申し訳ありませんが、後五円頂戴できますか?」

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