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ロシア文学秘話:トルストイを訪ねて

 汽車がヤースナヤ・ポリャーナの駅に着いたのでチェーホフは汽車からホームに降りた瞬間突然後ろから名前を呼ばれた。彼は振り向いて自分に声をかけた人間をみたのだが、そこにいたのは見知らぬ精悍な顔の青年だった。

「あなた小説家のアントン・チェーホフさんですよね?私はマクシム・ゴーリキーというペンネームで小説を書いているものです。いくつか雑誌に連載しておりまして、それから一応本も出しております」

 チェーホフは青年の名を聞いて驚いた。この自分よりは低いが人から見れば立派な長身の美青年があのゴーリキー。最大限の苦痛と自ら名乗り下層階級のリアルを凄まじい筆致で描いた作家である事に驚いた。彼はゴーリキーの小説を読んでいなかったが、周りの人間から作家の評判を聞いて荒々しい野蛮人だと思っていたのだ。

「いきなり声をかけたりしてすみません。何しろ私は極貧の生まれで教養もないので礼儀など何一つ知らないのです」

「いや、お気になさらずに。私も元々は農奴の生まれ。あなたと一緒ですよ」

「はぁ、そうなんですか!驚きました。あなたのような美しく繊細な短編を書かれる方が我々と同じ階級の出身であるとは。いや、あなたのお顔はお写真で何度も拝見していましたが、失礼ながらもっと華奢な方だと思っていたのですよ。ですが実際にお見掛けしたら人から長身だとよく言われる私よりもずっと身長が高いではないですか!」

「いや、いくら身長が高くても使い物にはならないですよ。自分に余るものを身につけていると碌でもない事が起こるものです。実際私は肺病でしてね。ところであなたもトルストイ翁にご招待されたのですか?」

「その通りです。私ごとき若輩に身に余る光栄で!ところでチェーホフさん。実際のトルストイ翁とはどのような方なのでしょうか?あの大長編から想像するに全能の神ゼウスのような巨人を思い浮かべてしまうのですが」

 チェーホフはゴーリキーのこの青年らしい無邪気な質問に笑みを浮かべてこう答えた。

「いや、私も初めてトルストイ翁に会うのです。たとえ神の如き巨人とはいえ我々と同じ人間でしょう。本人もきっと我々によって神に比せられているのに心良く思ってないのではないですか?」

チェーホフとゴーリキーは同じ馬車に乗ってトルストイの屋敷へと向かった。二人はその道中でもこれから会うであろうトルストイについて語り合った。

「やはりトルストイ翁はロシア文学最大の作家ですよ。あのプーシキンでさえ翁には及ばないんです。プーシキンがそうなのだからツルゲーネフやゴーゴリなどはなから相手になりませんよ。ましてやドストエフスキーのようなこけおどしの天才的なインチキ文士の書いた読み物など、トルストイ翁の真の文学に比べたらインクと紙の無駄遣いの代物でしかない。私は人があんなインチキをトルストイ翁と並べて語っているのを見ると私がどうしようもなく腹が立つんですよ。あんな小男がトルストイ翁のような巨人であるはずがないじゃないですか。チェーホフさん、あなたはトルストイ翁の文学についてどのように思われますか?」

「いや、あなたのおっしゃる通り、トルストイ翁は偉大なる巨人で、ドストエフスキーは自分を巨人だと思っている小人なのでしょう。恐らく実物もそうなのではないかと思います。噂によるとドストエフスキーはとんでもないチビだったそうです。あまりにチビだっだので奥さんがビンに入れて持ち歩いていたそうですよ」

 ゴーリキーはチェーホフの冗談に腹を抱えて笑った。

「たしかに、たしかに!おっしゃる通りドストエフスキーは背が小さいコンプレックスであんな大言壮語に憑かれたあんな訳のわからない小説を書いたのでしょう。彼の小説は全て大言壮語の見かけ倒し。ちゃんと読めばそこには瓶詰めできるほどの小男の自意識しか写っていないのです」

「はは、あなたはとんでもなくドストエフスキーに手厳しい。しかし我々が会うのは真の巨匠であり巨人でもあろう偉大なるトルストイなのですからもうドストエフスキーのような瓶詰めの小男なんぞ語るのはやめましょう」

 二人は馬車のなかで腹を抱えて笑だした。その二人を乗せた馬車はヤースナア・ポリャーナの田園を抜けて偉大なる大文豪レフ・トルストイの屋敷へと入って行った。

 馬車から降りたチェーホフとゴーリキーは二人を迎えに出てきた執事に名を名乗った。執事は二人を玄関に案内してトルストイを呼びに去った。ゴーリキーは憧れの巨人トルストイと初対面する事に興奮を抑えられなかった。彼はソワソワして仕立てたスーツにゴミがついていないかなんども確認した。チェーホフは彼に比べたら落ち着いていたが、それでも同じように興奮と緊張を感じた。チェーホフはアンナ・カレニーナを読んだ時そこに人間が抱える全ての問題が書かれていることに驚愕した。今その事を思い出しこれから会うトルストイという男は人間であるのか疑わしくなった。いや、いかん。さっき隣の男に言ったではないか。トルストイもまた普通の人間だと。だがきっと彼はやはり途方もない巨人なのだろう。彼はその巨体でこの屋敷から自身の領地であるヤースナア・ポリャーナ全体を見守っているのだ。いや、ヤースナア・ポリャーナだけでなくもしかしたらロシア全体を。

 しばらく待っていると中からとんでもなく馬鹿でかい女が現れた。チェーホフとゴーリキーは女の屋敷をぶち破るような太ましさに驚愕し頭が真っ白になった。

 馬鹿でかい女は目を剥いて自分を見ているチェーホフとゴーリキーに向かって自分はトルストイの妻のソフィアだと名乗った。チェーホフとゴーリキーはトルストイの妻のあまりのデカさにびっくりし、恐らくトルストイはもっと巨大なはずだと思った。偉大なるトルストイは本当に巨人であったのか、やはり巨大な人間であったからこそあの我が国の全てを包含するような小説が書けたのだろう。チェーホフとゴーリキーは目配せをして二人で一緒にトルストイの事を尋ねた。

「私たちは本日トルストイ伯に招かれてこちらに参上しました。トルストイ伯に挨拶をしたいのですが、今どちらにいらっしゃるのでしょうか?」

 それを聞いたソフィアは手に持っていた小瓶を見せてトルストイはここにいると答えた。あまりに突拍子のない答えだったので何が何だかわからない二人は顔を見合わせてどうリアクションすればいいか考えた。ソフィアはその二人の目の前に小瓶を突き出して言った。

「ほらよく見なさいよ。ダンナは瓶の中にいるの。ほらこのハエみたいな小人がうちのダンナよ」

 チェーホフとゴーリキーは何が何だかわからずとりあえず小瓶の中身を見たのだか、ああ!なんとそこに写真やロシア中に建てられた銅像でお馴染みのトルストイ翁が入っているではないか!ああ!なんてことだ!チェーホフは馬車の中でゴーリキーに話した冗談を恥じた。ちっこかったのはドストエフスキーではなくてトルストイではないか!

 ソフィアはこの信じがたい事実を突きつけられて愕然とするチェーホフとゴーリキーに向かって言った。

「このチビ、またうちから逃げ出そうとしたから頭に来て小瓶に閉じ込めてやったの!アンタたちどうせダンナの家出の手伝いを頼まれたんだろうけど、この通り旦那は完全に監禁してるから助けようとしても無駄!さっ、さっさとお帰りなさい!ダンナは絶対に外に出しませんからね!」


 この事件をきっかけにしてかチェーホフとゴーリキーはトルストイへの熱狂から覚め、急にトルストイに対して批判的になったという。

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