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続・人情酒場 第三回:曾祖伯父


 若い客は女将の言ったことが分かりかねて思わず聞き返してしまった。それを見た女将は少し慌てて取り繕うとしてこう言った。
「いえいえ、こっちの話なんですよ!ごめんなさいね」
 そう言って悪戯っぽく笑う女将の表情に客は異様なもの感じ、ここから去ることも一瞬考えたが、しかしどうにも立ち去ることは出来かねた。このまま女将を残して去っていったら女将は悲しむだろうし、それよりもこの部屋自体が彼に立ち去ってはいけないと言っているような気がしたのだ。しかし不思議な女である。と客は目の前の女将について考える。一体彼女は何者なのだろうか。自分とさほど年の変わらぬはずなのに妙に古めかしい喋り方をする女だ。しかしそれが全く自然で、彼女の存在自体もこの異様に古めかしい部屋に違和感なく収まっているのだ。客は再び女将を見た。女将は妙に寛いだ格好でおちょこで酒を飲んでいる。そして飲みながらこちらをチラチラと見ている。女将と思わず目があってしまったので、客は目を伏せたが、女将はその男の態度にクスリと笑いこう言ってきた。
「あの……この間おっしゃった事覚えてます?」
「この間って、えっとなんでしたっけ?」
「あなたのお爺様の伯父様のことですよ」
「僕が爺さんの戦死した伯父さんに似てるっていう?」
「そう」
 客はそう尋ねる女将の表情が真顔になっていることに気づいた。しかしなんで曾祖伯父のことなんか尋ねて来るのだろうか。酒の肴にでするにはちと重すぎる表情だ。そういえばこの間この店で曾祖伯父のことを話したとき女将は何故か急に泣き出したっけ。
「あなたのお祖父様、伯父様のことでなにかお話されませんでした?」
 しかしそんなに真面目な顔で問い詰められても、自分は爺さんから曾祖伯父のことなどろくに聞いておらず、ただ覚えているのは自分が亡くなった曾祖伯父によく似ていると言われたことだけであり、だいたい曾祖伯父の写真さえ見ていないのだ。だから客は女将に正直に曾祖伯父について知らないと言おうとして口を開いた。
「いえ、残念んながら爺さんの伯父さんについては……」
 そう口を開いた瞬間である。何故か客の頭の中に亡くなった爺さんが浮かんできた。記憶の中の爺さんは彼に向って戦死した曾祖伯父について熱く語っている。それは生きていた頃の爺さんから全く聞いたこともない話だった。彼は酒に酔ったせいで頭がおかしくなってしまったかと、かぶりを振って記憶の中の爺さんを追い出そうとしたが、爺さんの話を聞いているうちに何故か胸に熱いものがこみ上げ、いつの間にか熱に浮かされたように女将に向かって喋っていた。
「爺さんから聞いた話ですけど、曾祖伯父は北国のすごく貧しい家に生まれたそうです。小作人一家の長男で幼いときからすごく責任感のある子供でした。彼の尋常小学校の頃の成績は非常に優秀で県内で一位でした。しかし曾祖伯父の家には彼を地元の中学校に進学させるだけのお金がなかっのです。彼は両親と弟たちのためを思って進学を諦めて百姓になるつもりでしたが、しかし、成績優秀な彼がこの田舎に埋没するのを惜しんだ学校の教師達が、地元の名士達に頼み込んで彼を東京の陸軍幼年学校に推挙してくれたのです。陸軍幼年学校なら学費はタダだったし、陸軍に入れば安定した給料も入るので、彼は教師達の提案を迷わず受け入れました。そしてもともと成績優秀であった彼は入学試験に難なく合格し、故郷の期待を一身に背負って東京へ向かったのです。彼は幼年学校でも際立って成績が優秀であったので、士官学校にも問題なく進学しました。そして士官学校を卒業して陸軍に入るとその才能を見込まれて順調に出世していきました。故郷からはオラが村の出世頭と讃えられ、彼もその名に恥じぬよう懸命に働いていましたが、そうして過ごしていると自分の中に何かが満たされぬ思いがふつふつと募っていくのを感じるようになりました。幼年学校に入学するために上京してからずっと一人で暮らしていた彼はずっとこの大都会で孤独でした。それでも彼は懸命に働いていましたが、ある日突然彼に支那への異動の辞令が出たのです。当時支那では支那事変などでかなりきな臭い状況でしたので、曾祖伯父は何故自分がと呆然とし、そして生まれて初めて死というものを間近に考えたのです。そして彼は今までお国に捧げてきた自分の人生というものを改めて考えました。しかし、そうやってずっと考えているとだんだん気が滅入ってきます。だから曾祖伯父は気分を紛らわすために、勤務が終わると街の散策をするようになりました。そんなある日のことです。彼が街の川べりにある新しい居酒屋の前に足を止めたのは」
 ここまで話した時客はハッと口をつぐんだ。彼は口から出任せを地で行くような、このあまりにでたらめな話がなぜ自分の口から湧いてくるのかとビックリし、そしてこんなでたらめ話をしてしまった事に猛烈に反省して、慌てて冗談だと打ち消そうとして女将を見たのだが、女将は顔を震わせ食い入るように自分を見ていることに気づいて動揺した。その女将の表情は明らかに曾祖伯父の話を続けることを催促していた。彼は女将を見た途端、突然自分がなにか開かずの扉を開けるような気がして身震いがしてきた。だが女将の切羽詰まった表情を見ると、一旦話し始めた、この自分の頭のどこから出てきたのかわからない、デタラメ話を冗談だと打ち切ることはためらわれた。それどころか彼女の顔を見ると早く話の続きをしてやりたい気すらしはじめた。すると女将が静かにお猪口を取り出し酒を注ぎはじめた。そしてすっかり固まっている客に向かって差し出して言った。
「まだ……話は終わってないのでしょう。続きを聞かせてくださいな」
 客は女将から再び出されたお猪口を震える手で取り、今度は一気に飲み干した。彼はさっき飲んだときのような頭がぼやけるような熱いものを感じたが、それ以上に今話しを再開しようとしているデタラメ話の情景が異様な現実味を帯びて自分に迫ってくるので息苦しくなった。しかし、彼はそれでも何かに操られるようにまた話をはじめた。
「その日も曾祖伯父は勤務後の散策をしていました。街は綺麗な夕焼けで、彼はこれが日本で見る最後の夕焼けかも知れぬと、時折立ち止っては空を眺めていました。それから古ぼけた飲み屋街に入った彼は、目先に真新しい小さな居酒屋があることに気づきました。他の居酒屋の前には開店前にもかかわらず人が並んでいるのに、その店の前だけは、おそらく新しい店だからでしょう、店の前には人っ子一人いませんでした。彼はその真新しい居酒屋に近づいた時です。その飲み屋の戸が開き、そこから一人の若い女性が出てきたのです」
 突然瓶の倒れる音がした。それで我に返った客は何事かと話を止め、ちゃぶ台を見た。どうやら女将が自分の飲んでいた徳利を倒したようだった。客は女将に大丈夫かと声をかけようとしたが、女将の異様な態度に思わずぎょっとした。女将は体を震わせ、胸に手を当てながら息を吐いていた。まさか発作かと思った客は、彼女に駆け寄るために立ち上がろうとしたが、その時、女将は手の平を彼に突き出し、そのまま座っていろという身振りをした。それから彼女は続けて客に言った。
「私は大丈夫だから、話を続けてくださいな。聞きたいんですよ、話の続きを」

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