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【エッセイ】解釈する者の孤独

身体中に散らばった痛みを、これはここの痛み、あれはそこの痛み、と丁寧に整理整頓していくが、この痛みの整頓といっても解釈に過ぎない。痛みは痛みだ。それに場所を与えても、痛みの核には届かない。その整頓に収まりきらない何かがある。

医者からこれはここのこういう部分でこういった経緯で発生する痛みですという説明を聞いたところで、何になるのか
その説明されたものと、今ここにある痛みのあいだにある無限の隔たりが、現実を見失わせる
だいいち、医者は説明しながら、その説明しているその痛みの実質を知らないのだ

ある意味、最大公約数的な説明を与えることによって、解釈者は、その痛み自体からもっとも遠ざかった場所にいる。

心の痛みを解釈によって遠ざける
それでもなお、それは近づいてくる
形を変えたように見えるのは、私たちがそれを解釈しようとしたからだ
それ自体は変わらなくとも、光の当て方が変わったせいで変わったかのように映る

人の無意識に沈んだ傷を明るみにすることでその傷が癒えるとしても、それを世界に提示した人間自身は、そのやり方では救われないだろう。

癒しを施す人間が、その癒し自体にたいして醒めているとき、癒しは癒したりうるだろう
その人は、その癒しによって癒されうる最後の人間だ
そこでその人は障害につきあたる。その人だけはみずから、みずからの癒し手でないといけない

天才は、天才であるために、自分の創り出した次の世界へ行くことができない。この意味で、彼彼女らはつねに、ひとつの世界の最後の人間だ。

解釈する者についても、同じことが言えるだろうか。つまり、その人はその解釈を下したこと自体によって、その解釈後の世界から拒まれると。

なにかを解釈したという人間はつねにいかがわしい印象を与えてくる
その解釈自体がどれだけ説得力をもっていても。
なぜだろう?
それを発する解釈者自身は、この世界の者でないからだ
その解釈後の世界の住人ではないからだ
解釈者はつねによそ者だ
そして、そのよそ者のことをもっともはっきりと感じているのは、そいつを抱え込んでいるその人なのだ

私たちは今この瞬間にも、失われてしまった世界の、最後の一人なのかもしれない
各々が各々のいかがわしさを持ち寄って、またひとつ世界ができあがる


読んでくれて、ありがとう。


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