
【めも②】ふたつでひとつであるもの
自分たちの意見がまったく正反対だと思い合って、反発し合っている二人が、感じている「ところ」はまったく同じということがどれだけ多いことか。そして両者は、自分のほうを本物だと信じたいがために、憎み合うことになる。だとすると、感じていることは、それを感じているだけでは本物になれないのだ。それと呼応するかのように出力された別の表現と(無理矢理に?)一対にされて、戦いをくぐり抜けて、はじめてその「感じ」は本物とされる。勝ち残った表現のそばで、その表現と二つで一つとされて。本来なら無関係な争いに巻き込まれていい迷惑だ、と思っているんじゃないだろうか、と思うこともまた、表現なのだろう。
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感じるためには、心打たれるためには、私たちは徹底的に無知蒙昧にならないといけない。なにも前提のない状態でなければ、私たちはなにかを感じとることはできない。その理想状態で感じとったものだけが、本当の意味で感じとったものであるはずなのだ。そしてそんな理想状態はありえない。そんな理想状態があったと信じることはできても、あると言うことはできない。
同じ内容でも、違う媒体で語られていれば、惹きつけられる。というより、同じ内容だという無意識の想定があるからこそ、違う媒体であることがいっそう意味を持つようでさえある。
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信じることは、その信念の先にあるものとの密着のようでいて、それから隔てられることでもある。この隔たりを、その信念の対象から離れずに維持しつづけること、そうやってそのそばにありつづけることだ。信じるとは「離れない」ことであって、それと「一体になる」ことではない。
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その人の発したどんな言葉も、「美しい」ものとして受け取られてしまうような誰かがいたとする。その人はきっと最後には何も言葉を発しなくなる。
ありのままに表現したものは、実はすこしも自分の考えたありのままではない。すくなくとも、そのときはありのままと思えても、後からそういうことになってしまうのが、実情だろう。表現というもののままならなさがここにある。だから、その表現が本当に「ありのまま」であるためには、推敲とか彫琢とか、そういった加工が、何度も繰り返されないといけない。偽物に偽物を重ねて、本当に近づけようとするわけだ。けれどもこれでは、最初の「ありのまま」はもちろん、加工を重ねたあとの「ありのまま」も、ある種の嘘を含んでいることになる。もちろん、「加工」されないものこそが真実だと考えるならの話ではある。こんな気の遠くなるような作業を重ねていたら、「ありのまま」のものなんてないと言いたくなるのもうなずける。だけどその「ありのままなんてない」という考えもまたきっと、「未加工のものが真実だ」という考えが先にあって、生まれてくるものだろう。
偽物が本物に勝ることは本当に美しいのだろうか。それは、偽物が偽物であることを否定してはいないだろうか。「本物」にある点で勝った時点で、それはもはやその「本物」の偽物ではなく、別の「本物」だろう。
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