私の好きなゲーム

タイトルをいきなり否定するのは心苦しいのですが、私はゲームが苦手です。

ええ、本当に苦手なんです。ゲームを自分でするのが、オタクにあるまじきほどに苦手です。

私が今までちゃんと続けられたゲームはポケモン、モンハン、ヨッシーアイランド、たまごっちのDSのゲーム、星のカービィ、ボンバーマン、スマホのアクアリウム…

…意外と数は多いですね。自分で思ってたよりは多くて驚きました。兄や友達が好きなので、とりあえず一度はやってみるんです。

ただ、基本的にこれが半年も続きません。そして攻略も終わりません。

ポケモンは、殿堂入りまではします。攻略本を読みながら。でも図鑑をコンプリートするなどは絶対にしません。せいぜい伝説のポケモンをゲットするところまで…、メインストーリーを読み終わると「終わった!」という気持ちになるのだと思います。

同じ理由でメインストーリーのあるものは、それを読み終わるところまでは続けます。けれどそこから先の、いわゆるやり込み要素をやり込んだことはありません。

モンハンのように、アバターを育てる系統もすることもあります。モンハンは兄に素材集めを手伝わされていましたが、半年もたたないうちに飽きました。

そう、飽きるのです。

私はゲームを面白いと思わないわけではありません。人とやるパーティータイプや、人のプレイをみるのは好きなのです。友達とするスマブラも好きでした。

けれど、あまりに一方的な負けになると急に面白くなくなりますし、ストーリータイプはストーリーを読み終わると「ゴール」が分からないのが苦痛になります。

圧倒的な忍耐力の欠如です。

スマホゲームもそんな感じですぐに飽きます。昔マギにハマっていた頃にはキャラクターのイラストやボイス目当てにやり込んでいましたが、それもまたすぐに飽きました。

最後にはアクアリウムという圧倒的放置ゲーをしましたが、それすらも一年放置してしまったがためにアンインストールしました。

ゲーム向いてないな。高校生の頃にはそう悟りました。

けれど何事にも気づきがあります。私は大学生でそれを得ました。

大学で友達が「”人狼ゲームをしよう」と誘ってくれたことが運命の出会いでした。

私は当時「ゲーム=テレビやスマホ、携帯ゲーム機を使用したもの」というイメージしかありませんでした。なので「トークゲーム」や「TRPG」というジャンルを知らなかったのです。テーブルゲーム(いわゆる双六のような)も知っていましたが、もっと小さい子供がするものだと思っていましたし、大人だと逆に将棋やチェスくらいしかイメージできませんでした。

ですから久々のアナログなゲームがとても新鮮で、しかもとても楽しかったのです。

さらにカルタやラブレター、「はぁ」っていうゲームのような、遊戯王などとはまた違うタイプのカードゲームの存在も初めて知りました。

衝撃の出会いです。

今思えば私の周りでゲームをする人たちが好きなのは、対戦か各で楽しむものでした。ゲーム機を持っていたり、やり込んでいないと難しいもの。

私にとっては「その日に初めて遊んでも楽しめて、勝ち負けが実力よりも運に左右されるもの」のほうが面白いのだと初めて知りました。自分のことなのに、大学生にして初めて知ったのです。

負けが誰かに偏らなかったり、「初めてだしね」と言われたり、それが嬉しい。楽しい。この感覚には覚えがありました。

私は運動音痴で、昔から体育の授業が大嫌いでした。「負け」のレッテルを貼られたり「足手まとい」「いらない」と言われるのですから、好きなわけありません。私は「自分は運動が嫌いなんだ」と思っていました。

けれど数年後、高校の体育で運動へのイメージが変わりました。

私の高校はスポーツの特別クラスがあり、それ以外のクラスの体育はかなり適当でした。女子の体育などはストレッチや簡単なダンス、バドミントンやバスケ、長距離走くらいです。

それも別に勝ち負けやルールは適当で良くて、成績も「参加してるからオッケー」くらいのかなりのゆるさ。頑張っている子が成績優秀になるのは当たり前ですが、苦手だから極端に成績が悪いということもありませんでした。

そこで私は「別に体を動かすことが嫌いではないな?」という気づきを得たのです。なんてこった。

負け組のレッテルを貼られ、罵られることが嫌だっただけで、別に運動自体は好きだったのです。

「それは違うよ」「もっと努力してよ」「なんでできないの?」「本当にどんくさいね」

その言葉や目が嫌なだけだったのです。

試しに自転車で疲れるまで走り回ったり、気まぐれに筋トレをしたりしました。

楽しい。

晴天の霹靂でした。

そりゃ誰だって罵られるだけの分野が楽しいわけありません。それが娯楽のためのゲームであっても「もっとやってよ」「敗北」なんて画面に出続けたら面倒に決まっています。

あるエッセイで、「負ける練習をしよう」という考え方を見ました。

「負けて悔しい。でも楽しかった!」と思う練習をする。

私はもう体育の授業を一生することがなくなってから、その素晴らしい考えを知ったのです。

もしも私が小学校の頃に「負けたけど楽しかったね」「運動できて楽しかったね」「できなかったけど頑張ったね」と言われていたら。

全部もう終わったことですが、これから次の世代にはぜひその考え方を教えていきたい。そう思えることは意味があることだと思っていきたいです。




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