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頼もしくて無力なきつね、こん。

『こんとあき』という絵本が、死ぬほど好きだ。自分が幼いころにも繰り返し読んだし、もうすぐ小学校を卒業する長男にも、何度も読んで聞かせた。小学校1年生の次男にも小さなころから読み聞かせ、今もまだ好んでいる。

この絵本は、幼いころに母がよく読んでくれた絵本だった。林明子さんの絵本はどれも好きだが『こんとあき』は格別。

なんといってもこんの視覚的な可愛さは、動物を扱った絵本のなかでも群を抜いていると思う。でも、それだけではなくて、「大人のわたしでも欲しいもの」が、こんの中には詰まっているような気がするのだ。

だいじょうぶだいじょうぶ、と言う「頼もしさ」

こんは、ストーリーの中でいつも「だいじょうぶだいじょうぶ」と言う。ちっぽけで古いぬいぐるみのくせして、強い。

どんなことでも「だいじょうぶだいじょうぶ」と言って、いつも幼いあきを安心させる。ぬいぐるみに安心感を求めるのは、自然なことだろう。でも、こんがあきや読者に与えている安心感は、単なる癒しではない。

「頼もしさ」なのだ。

絵本の前半で、あきが赤ちゃんから幼児に変わるまでの成長が描かれている。このとき、途中までこんは、あきのなすがままになっている。手をよだれでぬらされても、自分の上をあきが這っても、しっぽをつかんで引きずられても、すべてを受け入れる。

「それでもこんは、あきとあそぶのがだいすきでした」

とある。まさしく、無条件で愛している受容の姿勢である。

しかし、あきが少し大きくなって、対等に会話ができるようになると、こんは急に擬人化する。自分の足で立ち、話をし、器用に立ち回るようになる。

しまいには、壊れてしまった自分を直しにいく旅に、あきを連れていくことになる。「主導権を握る立場」になっていくのだ。

こんは「理想の親像」なのではないか

個人的な見解ではあるが、こんは子どもにとっての「理想の親を具体化したもの」ではないかと思った。

自我が芽生えるまでは、なすがままで、全力で子どもを受け入れるが、ある程度の理解力がついてくると、今度はあきを先導するようになり、頼もしくなっていく様。

あきをさきゅう町まで連れて行くときの、一連のこんの言動は「親」に近いものがある。

「このきしゃにのるんだ。あきちゃん、ぼくについてきて」
「あきちゃん、まどのほうにすわっていいよ。もうずうっとすわっていれば、だいじょうぶ。しぜんにつくからね」
「あきちゃんは、まってて」

こんとあき/林明子

あきを先導する物言いや、心細い気持ちに配慮する声掛け。電車の車掌さんに対する受け答え。何もかもがはじめてのあきに対し、すべてが頼もしくて、安心感を覚える。

途中でハプニングに見舞われるが、それでも「だいじょうぶだいじょうぶ。おべんとう、まだあったかいよ」と、あきの心を最優先にするのだ。

ちなみに、『こんとあき』で、あきの親は一切登場しない。あきの親が出てこないからこそ、こんの「親心」が一層輝くように思う。やはりこの本の中では、こんがあきの「親役」を担っているからではないか。

ここで、母親だの父親だのが登場して、その雰囲気を醸し出してしまったら、こんはとたんに「おもちゃ」という脇役になるのだろうと思う。

わたしたちは普段の生活で、ぬいぐるみに「癒し」や「安らぎ」を求めることがある。でも、頼もしさや、気配りやこちらへの関心を求めることはない。

人形やぬいぐるみをかわいがったことは、当然わたしにもある。でも、こちらに関心を向けて欲しいと思ったり、配慮してほしいなんて思ったことはない。そんなことを期待するはずがない。「ありえないこと」だからだ。

でもそれは、親に対しても同じなのかもしれない。

「親もいろいろ大変だ」と思う気持ち。忙しそうだ。大変そうだ。叱られるとか、わかってもらえるはずがないとか。

関心を寄せてもらえなくても、思いどおりにならなくても、しかたがない。それが「親」だから。

それはぬいぐるみに対しても同じだ。ぬいぐるみなんだから、動かなくても話さなくても当たり前だ。最初から、そうなんだ。そういうものだ。

でも本当は、動いてほしい。話してほしい。一緒に遊んでほしい。そういう、子どもの願望。ディズニー映画のトイ・ストーリーなんかも、それに近いものがあると思う。

でも、その「叶わぬ期待」が、この本の中では叶うのだ。

この上なく可愛い見てくれの、ふんわりしたきつねのこんが、幼いわたしたちに関心を寄せ、先導してくれる。不安を気遣い、配慮してくれる。それは、わたしたち大人でさえ欲しいと切望する期待、願望、そのものなのだ。

親役は万能ではない、常に誰かの助けが必要である

とても頼もしくてしっかりもものこんだが、ストーリーの終盤では犬にさらわれて気をおかしくしてしまうシーンがある。あきは必死になっておばあちゃんの家に向かい、こんの心と体を治してくれと懇願する。

わたしとしては、やはりこれも「親も壊れる」「親も助けが必要である」という風に解釈する。こんがあきの「親役」として機能しているからこそ、生きるシーンであるように思う。

親役を担っていたって、所詮は人間。人間は生き物。生き物は無力であり、万能ではない。選択を間違うし、脅威には負けるのだと。

何を言っても「だいじょうぶだいじょうぶ」を繰り返す姿に、わたしは多くの母親像を投影してしまうのだ。大丈夫ではないのに、大丈夫と言うしかない。あるいは、もう現状を把握することもできないほどになっているケースが、多くある。どうも、そういう事例と重ねてしまう。

おばあちゃんに助けられ、丁寧に繕ってもらった後、こんは「おふろだって!いやだいやだ!おふろなんかはいったことないもーん!」と言って逃げ回る。

実にきつねの「子」らしい、自然な感情と振舞い方に、心が緩む。誰かに助けてもらったり、保護されたりしたら、人は自然な姿に戻ることができる。何かの役割を捨てて、自分を出すことができるような感じだ。

こんが満たしてくれたもの

こんがわたしにくれたものはなんだったのだろう。なぜ、こんなにもこんという絵本のキャラクターに心を奪われるのだろう。考えてみるが、やっぱり見てくれの愛らしさは、パッケージだ。

そこには、親が子どもと接するなかでの自然な姿や心、そして子どもが親に求めるものの両方が、密かに描かれているからではないかと思った。

子どもの成長を思う気持ちや、いつなんどきも強くあろうとする心、目の前の人を不安にさせたくない気負い。理想が強いのに、理想どおりになれない無力な人間。でも人は、誰かに守られたいし、配慮されたい。身近な、親密な存在に。

絵本の中でこんは、子どもやかつて子どもだった人たちの願望を満たしてくれたのではないか。

見てくれはパッケージなどとは言ったものの、わたしはこんの人形を買ってしまった。子どもと一緒に何度も撫でて、一緒に眠り、子どもにかえったような気持ちで、今日もこんを見つめている。

『こんとあき』は、多くの人の心を温かく包み、長い年月にわたって支えるような、「親役」を担う絵本である。今後もたくさんの子どもや大人に読まれ続けて欲しい作品である。






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