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「人間の海」と生息域

「世の中って、海なんだね」

先日、1年ぶりにあった友人と話していて、自分の頭の中には海が広がっていた。

彼女とはもう12年ほどの付き合いになるが、定期的に私を訪ねてきてくれる。いつも大抵、誰もわかってくれないモヤモヤした気持ちや理不尽なできごとについて深堀りしあって笑い、昇華する。

人間社会は海であるというのは、彼女が「他人に親身になること、親切にすることをやっとやめられた」というような話をしたことから始まった。

私たちは、どうしても人の相談や愚痴に対して親身になってしまうことが多かった。困った人を助ける役とか、誰もやらない穴を埋める役とか、そういう「おたすけ係」みたいな穴に、気づいたらスポっとはまってしまう。

相談をもちかけてくる人に対しても「最善を尽くすためには?」「どんな言葉をかけるのがベストだろうか?」の高速計算が始まる。たくさんのことを検討し、配慮し、出てきたものをオブラートに包み、優しい中にも厳しさがほんのり残るように。そうやって人に接してきたのだ。こうして文章に起こしてみるとと、なかなかに難しいことをやっているように思う。でも、それは自分たちにとって息をするくらいに当たり前で、昔は意識すらできないことだった。

しかし彼女は、こういった。

「最近やっとそういうの、しない人になれた。死にたいって思うことなんて、普通にあったじゃん? 今まで何回もあったじゃん。でも、そうやって親身になっていた相手に『へぇ~私死にたいなんて思ったことないや~』ってあっけらかんと言われたのよ。もう、バカらしいなって思えた。」

彼女は、明るくサッパリとそう言った。そして私も笑った。

一方だけがつらい人間関係は、生息海域が違う魚と無理して共生しようとしている状態なのかもしれない。

彼女と私は、同じ深さの層に住んでいる魚なんだと思う。海の端から端までを外側から見たわけではないので、具体的にどの深さに生息していたのかは自分たちも知らない。でも同じ群だから、何を苦しいと感じるかや、苦しみの「基準」や「濃さ」みたいなものが同じなだのだと思う。

いつも、人に親切にしたり優しくしたりするのに、それほど感謝されるわけでもなかったり、いつも都合のよい聞き役になってしまう……そういうことで悩んでいる人はとても多い。「この人なら真剣に聞いてくれる」とわかれば、人は何かあるたびに同じ人に話をしたいと思うものだろう。それは当然のことで、相談をや愚痴をもちかけてくる人を加害者扱いしているわけでは、けっしてない。

でもやっぱり、環境への耐久性が高い人ほど人の話を真剣に聞くという部分はあると思うのだ。毎回そういうポジションになってしまうのは、自然の摂理のように思う。

死にたいと思ったことがある人は、きっと「死にたいときのつらさ」を想定して他人の悩みを聞く。そりゃ、真剣にもなるし親切にもなる、優しくて当たり前なんだと思う。

でもそれは、心の底から心配していて、心の声に従った優しさというわけではない。

「死にたいときの気持ち」を思い出して、接しているということ。本気で相手を想っているのとは違くて、自分の感覚で生きているだけなのだ。死にたいときの気持ちを体感的に思い出しているから、たくさんのことを検討し、配慮し、出てきたものをオブラートに包み、優しい中にも厳しさがほんのり残るような対応をするのだと思う。欲しくて欲しくて仕方なかったものを、目の前に具現化しているみたいな感じだ。

でも、相手はそんな背景や生息域の違いなど全く意識していない。だから外側から見ても、私たちはやっぱり、息をするほど簡単に人に尽くせる人だと映っているのだろう。

でも、そういうアンバランスな関係になってしまったら「自分とは生息域が違ったのだ」と思えば、なんだか気が楽になる。

海の中は、深さによって環境や暮らす生き物が全然違う。深海に生息していたか、中深層にいたか、表層にいたかはみんな違う。いくつもの層を行き来できる者もいる。でも、一見するとみんな同じ魚だから、長く観察しないと気づかないのだ。

海水魚は、他の種類の魚や生物と一緒に生活することで、お互いの利益となる「共生」という生き方をするものが多い。たとえば、カクレクマノミはイソギンチャクのなかに隠れて敵から身を守る。イソギンチャクは、クマノミが自分の中に住み着いてくれると海水が循環するので元気になる。こうやって、誰かと一緒に暮らすことでお互いが満たされるような共生は、人間にとっても必要なことだろう。

一方深海魚は深さと暗さのせいで探索が難しく、わかっていることや理解されている部分が少ない。太陽の光が届かないし植物も育たない。近海の魚にはない「めずらしい」「普通じゃない」ような特徴をもっている。それは、環境に適応するために自分たちで進化してきた結果だ。人間も、それとまったく同じなのではないか。自分に必要なものを得るために、複雑でめずらしいやり方をする。すべては、しんどさを跳ね返す耐久性であったり、愛をもらうための知恵である。

でも、大きな枠で見たらみーんな「魚」であり、海の生き物図鑑にのる仲間なのだ。水族館にいる生き物のそれぞれが、どの程度違う性質や適応能力をもっているかなんて、本当に興味のある人しか知ろうとしないものだろう。

人の世界は、海と同じだなぁとしんみり思った。深海魚と海水魚が共生することはない。もし、そういうバランスの悪い関係性ができてしまったら「ごめんなさいね、私とあなたは共生できる種の魚じゃないのよ」と思ってみるのもおもしろいと思う。

しかし海の生き物たちは、自分とは違う種の者が「ただそこにいる」ということを認めているだろう。共生することはなくても、共存はしている。

同じ生息域の友人をもつことや、同じ種の人がいるというだけで救われるということを、海の生き物からも学んだように思う。

そして、どんな魚も同じように大きな海に包まれていることを忘れたくないなとも思った。







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