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福島の仮設住宅を訪れた記憶

2011年3月11日
当時、高校3年生。
この日わたしは国立大学の後期受験を前日に控えていた。
この日はそれぞれに10年経った今でも記憶が鮮明な人が多いのではないか。


千葉の学校に通っていたわたしはその日もやはり学校にいた。
もう卒業式も終わったのに。

春休みを満喫している人が多い中、そんなことも気にならないくらい受験に集中していた。

千葉でもかなり揺れた、耐震のしっかりした学校にいてもである。


校内の視聴覚室的なところで地震の様子がテレビに流れていてみんなで見た。

すでにその光景は夜になっており、火災の様子が報じられていた。

同じく後期受験を控えていた大学が次々に「入試中止」を発表した。

わたしの関東にある受験校は「やります」と言い続けた。
(震源地近く含む全国から集まるんだぞ?!アホなのか?!)


翌朝になっても「やります」と強硬に言い続ける大学にしぶしぶながら向かった。
 
向かい始めてすぐに「中止」のアナウンスがあった。


震災にまつわるニュースがずっと流れていた。
地震・原発・死者数・行方不明者数・ACのCM・「がんばっぺ東北」・放射線・ベクレル・風評被害・被災者・ボランティア‥‥‥‥‥‥‥……

遠い場所での出来事でしかなかった。

「ボランティアに行こうと思う」という友人にびっくりしたくらい、
自分に出来ることはないかなど考えなかった。募金はしたと思う・・それくらい。



後期入試を中止にした大学にセンター試験の点数で判定され、入学した。

私の学科は16人の小さな学科だった。

教育学部でありながら、公害や差別、偏見を扱う学科だった。


16人の中に、福島出身の女の子が2人いた。避難所をまわったという子もいた。

地震が身近であり、「うちの家は半壊申請が出来なかった」「うちの親戚は海沿いにいて・・」いきなり3.11というものが身近なものになり、自分の鈍さに恥ずかしくなった。


3年生になり、ゼミで「原発」を扱うことになった。

私はぼーっと生きているせいか覚えていなかったのだが、
福島出身の1人が
わたしは当事者なの。
あなたたち本当に原発を学ぶの?その覚悟があるの?」
と泣きながら問うたという。

(そんな強めのシーンなぜ覚えていないのか・・・つくづく自分勝手だと情けない。)


私はふわふわ頭ゆえに、原発を学ぶゼミについていけなかった。
他人に同調し、確固とした自分の意見を作ることが出来ずに目の前を流れる議論に乗れずに傍観した。


それが悔しかった。


わたしは卒論で、原発に汚染されたという大熊町の方々が済む仮設住宅に住む高齢者を取材した。

当時は「仮設住宅での孤独死」「仮設住宅での鬱」「仮設住宅での廃用症候群」

高齢者になると人とのつながりが希薄になること・避難先でそれが露骨に出ること、そんなことを問題意識にあげ、卒論としてまとめようというつもりだった。


仮設住宅で敷かれる自治会制度により、自治会長的な人と連絡をとり、仮設住宅に住む方に話をするアポイントを取った。

1年で4,5回福島には赴いた。1週間ずっと福島に滞在したこともあった。

大熊町の仮設住宅は会津若松に置かれた。

3年経って、会津若松の町は震災を感じさせなかった。

そして、わたしは震災を感じなかった。


仮設住宅に住む方々に会った。
しかし、みんな当たり障りなかった。

元気な人にしか会わせてもらえなかったのだと今更ながら思う。

それはそうだ。
一介の学生に。その時は気付かなかった。

この様子を発信するわけでもない、影響力もない、助けてくれるわけでもない学生。


「壁が薄くてね」「出歩きもしないし、テレビ見ているだけ」「集会所に行くと友達に会える」
そんな話を多く聞いた。



1人だけ一生懸命だけどでもそれでも生ぬるい学生であるわたしに、本音を語ってくれた。

「死を待つだけの生活だよ」

亡くなった近しい人、狭い仮設住宅、帰れない家、流れていく歳月、崩れていく想像した生活、取り戻せない生活、積み重ねた財産、かつてあったエネルギー‥すべてが震災や事故によって奪われた。


このまま死ぬのだろう。
慣れ親しんだ家に帰れずに。
窮屈な仮設住宅で。


2年住まうことを目的とされた仮設住宅で3年を超える歳月が過ぎていた。簡易的なつくりの住宅ではあちこちぼろも出ていた。雨漏りがあって・・と見せてくれた。

精神的にもかなり応えたはずだ。

今なら、当時よりも、まだ、理解が及ぶ気がする。


もうあれから8年も経ち、震災からは11年がたった。

わたしは東北の人たちを勝手に想い、勝手に祈っている。

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