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"綺麗ごと"の何が悪い。自分探しと自分の痛み

"綺麗ごと"を言う私は、生き方にこだわっていた。

 
「自分が言う"綺麗ごと"を否定されることは、自分の生き方を否定されることと同じ」だった。

   

自分が、至極辛いと感じたことは、
「こんな感情を感じる人が少しでも減ったら良いのに」と思う。

「"辛い"と感じたことの原因を無くせるように生きていきたい」と思う。

「自分のような人を増やしたくない」と思う。

   

どれも、当然のことだろう。
"信念"と呼ばれるものと近いものだ。

だけど、社会から"綺麗ごと"扱いされてしまうのは避けられなかった。

だから、自分には欠陥があるように思えた。
人と違うと言われることのほうが多く、生きづらかった。


   

しかし、人は基本的に、反面教師で生きているはずだ。

   

私が「生きていたくない」と思った世界には、しないために生きていると言っても過言ではない。
むしろ、それが"自然なこと"だろう。

誰しもが、
「二度と同じ過ちを繰り返したくない」と思うだろう。

大事な人を失って傷ついたら、二度と繰り返したくないと思うはずだ。

親孝行できず、親不孝のまま亡くしたら、この痛みを二度と繰り返したくないと思うはずだ。

学校でいじめられたら、いじめられたときの屈辱を二度と味わいたくないと思うはずだ。
(Daigoはその良い例だろう。いじめられたこともバネにして、メンタリズムを勉強したと言っていた)

   

   

私も、自分自身の生き方に悩みつつも、

「二度と繰り返さないために、するべきことが何か」が、絶えず意識の中にあったと思う。

『二度とあのときの痛みを繰り返さないために必要だ』と思うことを、本や体験を含めた今までで見てきた世界の中で、その答えを求める姿が、「自分探し」なのだろう。

   

しかしながら、理論的な原因の究明はできても、「自分探し」の答えつまり、"生き方"が見つかるとは限らない。

痛みの原因を知るのは、あくまで"事実"だ。
行動して自分の中に確かに存在する気持ちが"真実"だと私は思う。

   

私は、原因究明しても、やりたいこと(生き方)は見つからなかった。
結局「何をしたいか」という自分の中の真実に目を向けなければ、何もならない。

   

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