いつか推しがいなくなる日まで
わたしには推しがいる。中学生のころから15年以上推し続けている存在が。
推しのことを、好きすぎて推せなくなった時期が何年かあった。推しが紡ぐ音楽が受け入れられず、過去と現在の推しを別の存在として捉え、過去の推しだけを愛していた。
あのころは本当に苦しかったなあ。推したいものを推せない辛さ。わたしが今推しを推せているのは、過去と現在の推しを同じ存在として受け入れられたからもあるけれど。何より推しを、推したかったから。それに尽きる気がしている。推しを推せないわたしは、わたしじゃないみたいで、生きた心地がしなかった。背骨がない軟体動物だった。
再び推しを推せなくなったら、わたしはどうするのだろう。その未来は確実にある。永遠に推せるわけじゃない。わたしの推しは、子供が成人するまで、あと10年くらいは活動を続けるだろうけれど、それ以降はわからない。活動のペースは年々落ちているのが現実。
推しがいなくてもきっと、生きてはいける。背骨の代わりはどこにもないが、軟体動物は軟体動物なりに生きやすい場所を見つけられる。実際、あの頃もそうだった。
だからわたしが今考えるのは、推しとのお別れの仕方。終わらせ方についてだ。悔いなくなんて絶対無理だけど、できるだけ悔いの少ないように今から感情の整理をしている。
好きすぎて嫌いになるほどの捻くれた愛を整え、真っ直ぐに好きでいたいのだ。ミュージシャンと観客という距離の上で。声なんか届かないでほしい。わたしは推しが夜ごと描き続けた夢を構成する、何万分の一のうちのひとつ。こんな幸せはないよ。それだけでわたしは遠くへ行ける。そこはもしかしたら、軟体動物の楽園かもしれない。
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世界はそれを愛と呼ぶんだぜ