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透明は濁らないのではない


ー朱に交われば赤くなる。

ということわざがある通り透明や純潔というものはとても汚れやすい。

<透明である>

という強い意志がないとすぐに誰かに奪われたり汚されたりするのが

そういった類の清らかさである。


2017年頃、私は四国一宮である大山祇神社の中で博物館勤務をしていた。

大山祇神社には日本の武具甲冑の8割の国宝が納められていると言われるほど武具の奉納が多い神社だった。

それほどまでに古来から崇敬を受けていた神社である。

宝物館の掃除をしながら国宝を拝める毎日。


美しく装飾された鎧を見ながら、

鎧が守れるものはなんだろうなと考えていた。


現代でこそ生身を削るような戦いはないが、

その分多くの人が見えない何かと戦っている。

巧妙にキレイなコトバに包まれながら心を蝕むような

そんないやらしい身の削り合いもある。


現代は心の疲弊しあいが毎日のように繰り広げられている。

それは、心の言葉とコミュニケーションが乖離してしまっているからに違いない。コトバは言葉の抜け殻状態だ。


私が思うに、身を守ろうとすればするほど鎧や外装は厚く重くなって

自分を拘束し始める。重く自分にものしかかってくるのだ。


それと一緒で心の中というのも傷つけられまいとすればするほど頑なになってしまい結局濁ってしまうような・・・


ーそんなことを考えていた。


山の水が清らかなのは循環しているからだ。

透明が透明でいるためには

鎧を纏うような生き方では循環もせず結果濁ってしまう。

ーそれは池の水のような。


清濁合わせ飲むような度量と根の張った知性

心の中の風通しが良い状態

そういった精神の環境を整えるということが透明を維持する唯一の方法だ。


汚れてしまっても自分で濾過できるような仕組みを

心の中に持つこと


フラクタル思想が根底にあるので

自然も精神も理論は一緒なのではなかろうか。

そう思うことが多い。







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