選択と余白、線引きについて
某社の出版差し止めの話題から展開して、キャンセルカルチャーと批判の線引きのことをあてどなく考えていた。
某社については些か気の毒なようにも思うが、内容には原著未読のため触れられない。ジャンルを問わず発表されたものはその瞬間から批評論評の対象になるものではあるが、良書であれ悪書であれ目にも触れないという状況になったことについては思い巡らせてしまう。
物事に対して批判的なスタンスをとる際には、個人的な感覚が世間と著しく乖離してはいないか、思考の前提が間違っていないか、複数サイトやSNSで検索する。歯に挟まった物言いで躊躇う人たちや、それとなく言及する声も賛否両論を拾う。必ず先んじてこの作業をするのだが、一定の冷静さを確保するための役には立つ。
何故ならば、人は得てして自らの経験と感情のみに立脚して語りたがるものであって、わたしもその御多分に漏れないだろうという自覚はあるからだ。
キャンセルカルチャーを軽々しく惹起しないよう、思考しながら投稿する時にはタグや名称を省くことも多い。陰口と勘違いされても一向に構わないが、ネット上においては燃え易いイシューが存在するための配慮だ。
つまり、同じものを同時に見聞きしていて「この人はいまこれについて考えている」と予め知っている人間でないと、何のことを指しているのかさっぱりわからないようにしている。検索によって辿り着いた人間に、よからぬ固定観念を植え付けたりもしたくない。
対して、キャンセルカルチャーとは基本的に、社会的繋がりによって対象の立場や利益を著しく喪失させる目的を孕んでいるものだと思う。批判そのものの論点よりも、対象への懲罰的な側面が強くなることも少なくないのではないか。
不買を含む社会運動には物事を変えていくポジティブな力もあるが、過激化すれば言論や消費活動そのものを萎縮させてしまいかねない。また、批判にキャンセルカルチャーのレッテルを貼ることで、批判の声そのものを消そうとすることもできる。特に権力勾配が存在する時には。
ソーシャルグッドと怒りによる尖鋭化の狭間を見つめている。
炎上を見かけるたびに虚しさを感じるのも全くの無関係ではないのかも知れない、と漠然と思った。焼き尽くされた後に残るのが悪感情なのか、教訓や指針なのかの違い。
勿論、見たいものも聞きたいものも掲げたいものも、自分で好きなように選べるしその権利がある。
たとえ過去に良いと感じたものであったとしても、信頼に欠ける部分があると判断したならば踵を返せる。
支持できないものは取り下げてもよいし、長い思考と逡巡そして葛藤を経て再び支持してもよい。掲げるも片付けるも、全て個人の自由だ。
たとえば、普段どれほど善良そうな意見を言っていたとしても、エイジズムやルッキズム、ジェンダーロールその他スティグマの類を助長するようなことをしている人間や集団は明確に支持しない。これは単純にわたしのポリシーであって他者に適用するものではない。
スタンスが変化したと感じた時には、判断を再び行う。それくらいの含みがないといけない。信頼は簡単に崩れ去る砂の城のようなもの。だがそれは一方的な願望や視点でもあり、人は間違う存在で揺らぐものでもある。読み方や受け止め方も変容しうる。わたしもその中のひとりであるという意味では常に対等であり、相互に判断されているに過ぎないのだ。
1400字も書いてきたところで、欺瞞に満ちた健康本の数々をどう思うかと問われたら、あまりにも被害が甚大なので取り払ってほしいという気持ちもある。
思考と感情の中で生きる限り、幾許かの矛盾を抱えつつ。