銭湯

なんとなく、昭和に対する憧れのようなもの
あたたかい、懐かしさ

そんな空気を、知らないのにしっている。

どこで、何でみたかはわからないけれど

わしは銭湯にあこがれていた。

そもそも、お風呂に入るのがすきだ。

しずかちゃんが1日3回お風呂に入る設定なのは、
そんな奴いないだろうっていう
作品のひねりだと解釈している
けど、わしはしずかちゃん寄りの人間だ。

寝る前にお風呂に入るのは前提として、

疲れたとき、ダラダラしたいとき、
朝起きて疲れているとき、暇なとき、

とにかく湯船の中にいたい。

何回も入れる日はそんなにないけれど、
とにかくお風呂が1日の楽しみだ。

だから銭湯にあこがれる
というわけではない。

なんやねん。

って思ったかもしれない。
けどここに、自分のこだわり、美学がある。

物事にひとつ、手間をかけること。

それは、平成から令和にかけて
徐々に削がれて行ったものだ。

平成は、どんどんどんどん物が進化した。

便利の加速がすごかった。

みんな、便利のおかげで得られるものが
多かったのだろう。

便利で時間を作ったのに、
作った時間を何かで埋める人も多かった。
今でもそう。
わしも、埋めなきゃいけないと思っていた。

単純に大変だ。

わざわざ空けて、わざわざ埋める。
こんなに無駄なことはないと思う。

だから、手間をかけたくなった。

何かひとつ、自分の手を使うことで
豊かになることがあるんじゃないかと思った。

外に求めるものと内に求めるもの、
バランスを見直すときがきたのかなって。

そういう意味で、
昭和が懐かしくなるのかもしれない。

手間暇かけなきゃできないこと、
それがいっぱい転がっているように見えるから
どこか懐かしく羨ましい。

そんなことしてたんだ
って言って面白がっていた昭和のトピックス。

こんなにも物が溢れているのに、
大半は電気がないと役に立たない。

へんなの。
使えないなって思ってしまう。

電気がなくても料理はできて、
電気がなくても暖はとれる。

知っているだけでぜんぜん違う。

古い道具が急に、なんでもできる
魔法のアイテムに見えてくるのだ。

冒頭で話した銭湯へのあこがれは
たぶんそこからきている。

この年になってようやく、銭湯に行けた。

実際に体験した銭湯は、
想像していたのよりももっともっと
ファンタジーだった。
よくわからない非日常感があって、
とにかくおもしろかった。

テレビでしかみたことないやつ。
テレビでもみたことないやつ。

すごくリアルだった。
銭湯が現実になった。

番台は本当にあったし、
ケロリンの桶も使われている。
コーヒー牛乳も売っていたし、
マッサージ機も置いてある。

壁に貼られたポスターとか
鏡貼りの脱衣所とか
お風呂の窓からさす光とか
壁のタイルの絵とか

美術的にもきれいな空間でほんとうに美しい。

なんか、日本人が思う日本って言ったらこれ、
みたいなイメージがぎゅぅって詰まっている。

今の時代に、わざわざ共同のお風呂に行く
必要はないように思える。
けど、なんかそうじゃなくて、
「わざわざ」がすごい大事で、
1人でも使えるものをみんなで使うことに
すごく意味があると思った。

それがひとつの知恵なんじゃないかと思う。

でね、銭湯の帰り、
歩いている間にまた、いろんなことを考える。

夕飯のこととか、明日の天気とか、
風が冷たいなとか、

そういう日常にあこがれている。

銭湯に通えたらすてきだけど、
自分が納得の行くコスパで取り入れるには
引っ越さないといけない。
だから今は、
たまの楽しみくらいでちょうどいい。
1日に3回入るなら、家のお風呂の方が
都合がよかったりもする。笑

そうして手間をかけて浮いた時間は、
大変貴重なものに思える。
苦労した分だけ味わえる達成感の
ミニバージョンみたいな感じかな。

もちろん、手間は100%じゃなくてよくて、
わしは現代も享受していきたい。
自分が満足できるラインを達成できたら
きっと面白い。

その気軽な一歩が、
銭湯の中でみえるような気がした。

それがみえなくても、
お湯につかるのは単純にきもちい笑

平成生まれの昭和育ちだからこそ
銭湯的な雰囲気にあこがれをもてるのかな。
なんてラッキーなんだろう。

〆_φ(・_・

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