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皇室と結婚の「報道」に感じる理不尽さ

「両性の合意に基いてのみ」婚姻が成立するはずのこの社会で、生まれながらにして「国民」扱いされず、寄ってたかって自身の結婚を「認める」「認めない」と言われ続けなければならない立場に置かれてしまう不条理…報道に触れる度、そんな違和感を抱いていた。

「こっちは税金払ってるんだから」という乱暴な声さえ耳にする。自ら立候補した国会議員と違って、彼女は生まれながらにして今の立場にある。「お金が絡むんだから結婚にも口を出されて仕方がない」かのような立場に誰かを追いやっていること自体が、非常に理不尽ではないだろうか。

そして今日、「小室圭さん帰国」とわざわざ速報が流れ、空港の模様を生中継される社会で生きていることの意味を考えていた。この間、報じる側の姿勢の問題が何度となく浮き彫りになってきたように思う。

例えば「小室圭さんをニューヨークで直撃 一時帰国直前に”長髪姿” 婚姻届提出へ」という見出しの記事があった。長髪などの容姿をわざわざタイトルにまでして強調することが「報道」なのだろうか。

あげく、勤務先の映像まで公開するテレビ局まで現れた。

彼は「私人」だ。働く場所を「晒した側」にとっては、それは一瞬の出来事、数ある「仕事」の中の一つに過ぎないかもしれない。けれども「晒された側」にとって、その苦しみは長く長く、つきまとうはず。その視点がすっぽり抜け落ちている。

この記事では「『後日、会見でお話ししますので、今日はこれで失礼します』とひとこと言えば、それで終わっていた可能性もある」というテレビアナウンサーのコメントを紹介しているが、そもそも、「私人」である彼のプライバシーを無視して突撃するメディアの姿勢の問題には触れず、答えることが「義務」であるかのように語るのは筋違いではないだろうか。

彼の母親の金銭を巡る「問題」を報じる記事もあるが、別人格であるはずの親と子を同列に語る報道は、「家」や「血筋」に人を縛ろうとする呪縛のようなものだと感じる。

誹謗中傷を受け自ら命を絶った女性について、「ネットの書き込みは深刻な問題だ」とこぞって報じていたはずのメディアが、舌の根の乾かぬうちに「ここに叩いていいターゲットがいる」と旗振りをする。そんな光景が何度繰り返されてきただろうか。

「報道」にあたり、注力するための「力点」を間違えていないだろうか。メディアの受け手としても、報道機関にそんな働きかけが必要なのかもしれない。

例えば、女性皇族だけが「天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」とされてしまうのはなぜなのか。彼女が皇族ではなくなり、仮に離婚したとしても「実家」に戻るという選択肢が得られないのはなぜなのか。

ジェンダーの観点からも、人権という点からも、構造的な問題は山ほどある。時代と共に皇室のあり方も変わっていいはずだ。その議論を投げかけることに、力を割くことはできないだろうか。

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