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それは、誰のための希望なのだろう

東日本大震災から間もなく8年という月日が経とうとしている。今でも鮮明に、思い返す出来事がある。

震災後に私が向かったのは、岩手県の沿岸の街の中で一番南に位置している、陸前高田市だった。私は神奈川県の出身だ。ただあの当時、夫の両親がこの街に暮らしていた。

瓦礫に覆われた市街地を前に、ただ茫然と立ち尽くした。義理の父は勤めていた病院の4階で首まで波に浸かりながらも、一命をとりとめた。けれども一カ月後、義理の母の体が川を9キロ上流にさかのぼった瓦礫の下から見つかった。義母は9km濁流に流され続けてもなお、家族のように大切にしていた2匹の犬の散歩紐を、しっかりと握りしめたままだった。

これだけの悲しみに覆われた街で、一体何を発信すべきなのか、分からなくなっていた。自分がどれほどシャッターを切ったとしても、瓦礫がどけられるわけではない。避難所の人たちのお腹を満たすことも出来ない。

そんな中で何とかシャッターを切ることが出来たのは、後に”奇跡の一本松”として知られる松だった。かつては日本百景にも数えられていた「高田松原」は、「7万本もの松林」として地元の誇りだったという。それが殆ど更地になってしまった中で、唯一津波に耐え抜いた松だった。瓦礫に囲まれながらも、朝日の中で真っすぐに立ち続けるその姿に、私は夢中でシャッターを切り続けた。この松はきっと、人に力を与えてくれる存在になるはずだ、と。

後にその写真は「希望の松」というタイトルと共に、新聞に掲載されることになる。「ようやくこの街のことが伝えられる!」私は真っ先に義父にその記事を見せにいった。

ところが父は険しい表情でこう語った。「あなたのように、以前の7万本だった頃の松原と一緒に暮らしてこなかった人間にとっては、これは”希望の象徴”のように見えるかもしれない。だけど以前の松原と毎日過ごしてきた自分たちにとっては、波の威力を象徴するもの以外の何物でもない。”あの7万本が1本しか残らなかったのか”って」。見ていて辛くなる、出来れば見たくない、と。

父の言葉にはっとさせられた。自分は一体、誰のための希望をとらえようとしていたのだろう。この地に生きる人たちにとっての希望だろうか。それとも、外からやってきて「もう辛いものは見たくない」と感じてしまった自分本位の希望だったのだろうか。なぜシャッターを切り、発信する前に、人の声に丁寧に耳を傾けなかったのだろうか、と。

その後も明るい話題を耳にする度に、「自分は復興に携われていない」「自分は前向きになれていない」と義父の心が追い詰められていくのが分かった。もちろん被災した方々の中にも、そんな未来を見据えるようなニュースに支えられる人たちはいるはずだ。義父の「一本松」への思いも、街の方々が皆同じようにとらえているわけではない。あの松を心の支えにしている方もいるはずだ。ただ、義父の声を受けてから、伝える仕事は本来、声をあげられずにいる人々を置き去りにしないことが役割では、と自分自身に問いかけるようになった。

今、伝えられている“希望”は、誰にとってものもなのか。あの日の義父の言葉を胸に、今年の3月11日を迎えたいと思う。

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