見出し画像

n回目の1日

離脱症状からn日が経過した。酷いものだった。
どんなことでも一定の時間が経過すれば慣れるものだ。なるほど、これが馴化か。

結局、抗うつ剤を1錠増やした。1錠増やした途端、調子が良くなった。あまりにも単純な仕組みで、あれこれ考えていたことが急に馬鹿馬鹿しくなった。化学の力でなんとか表面張力くらいのギリギリの均衡を保てている。決壊して溢れ出ないよう祈るしかない。身体はこういうシステムなのだ。

気が付けば髪が随分伸びていた。重い腰を持ち上げて美容院に行った。予約をしてしまえばあとはもう行くだけだ。
電車が苦手なので必ず文庫本を持っていく。自分の居場所を確保するのは大切だ。活字を読んでいれば、人々の賑わいもその圧倒的な密度の濃さもなんとか乗り越えられる。乗り換えは自分のつま先をひたすらに見つめて覚えた道順に沿って歩けばいい。それを繰り返していればいつの間にか目的地に着いている。

美容院にいる時間が好きだ。サロンモデルをやっていたのだって、人にされるシャンプーが気持ちいいから、という理由がかなり大きかった気がする。髪の毛が綺麗になると気分が自然と上がる。単純な人間。頭がどんどん軽くなっていくと、その分だけ靄が晴れる気がする。

素人目から観察すると、あまりにも滑らかな動きで一切躊躇うことなく、私の怠慢によって放置されていた爆毛ジャングルに鋏を入れるので、どういう思考の回路を通ってそこにたどり着くのだろう、と真剣に考えてしまう。YouTubeでたまにお勧めに流れてくる、職人の神技が延々と流れている動画を見ている時と同じ顔で釘付けになって見てしまう。
私が美容師さんサイドだったら、全てを任されている重圧と緊張のあまりに、バリカンをおもむろに取り出して全ての毛を刈り取ってしまうかもしれない。そんな妄想をしていたら猛烈に申し訳ない気持ちになってきた。そう思いつつ、何年も私の鏡越し凝視スタイルに何も言わず、ウキウキ最高ヘアにしてくれる美容師さんに本当に感謝している。
気づけば床にはチワワ一匹分くらい髪の毛。さっきまで私だったもの。ABAYO。
17か18歳のときからお世話になっている、誕生日が同じの美容師さん、といつも温かく出迎えてくださるサロンの皆さん。私の日常を支えてくれてありがとう。

私は生活の中で、自分で勝手にルールのようなものを作ってしまい、それに沿って物事が進まないと焦るタイプの人間だ。一種の強迫観念なのかもしれない。定規でピシッと引いた直線を乱したくない性格なのだ。応用が苦手。柔軟な対応が苦手。これが生きづらい要因だということに薄々気がついている。
でもその習性のおかげで出会えた人がいる。

ランニングの道中にある木造アパートの2階に住んでいるおじさんだ。
この一文を読んで、110番に通報するのは少し待ってほしい。

先述した通り、ルーティンを乱したくない私は、毎日ほぼ同じ時間に家を出て、同じルートでランニング兼散歩をするのだが、その道中に例のおじさんを85%くらいの確率で見かける。おじさんに初めて気づいたのはどれくらい前だっただろうか。
ふと、何気なく空を見上げようとしたその視線の上昇の途中で、タンクトップ姿で桟に腰かけながら煙草を吸っているおじさんを見つけた。どこか遠くを見ていた。歩いているので一瞬で視界から消えてしまったのだが、なんとなく彼が私の生活の中に入ってくる予感がした。

次の日も、その次の日も、同じような格好で煙草を吸っていた。凝視するのは失礼だから空模様を見るついでに、ちらっと見る。やっぱりいる。ほぼ毎日いる。
少し考えれば、それはおじさんの部屋のベランダなのだから毎日いても不思議ではない。ただ、あまりにもきっかり同じ時間にいるので、その正確さが若干怖いな、と心の中で呟いたところでその言葉がそのまま自分に返ってくる。特大ブーメランだ。
恐らく相手のおじさんも「こいつ、毎日見かけるな」と思っている。たまに目が合うから。勿論脳内でLove so sweetが流れることはない。会釈をするような関係でもないのでお互いの存在を確認して素通りする日々が続いている。

多分、どんな人にだって毎日見かける人はいるはずだ。通勤電車の中。近所のコンビニ店員。犬の散歩をしている主婦らしき人。そういった存在だけを頭の端のほうで認識している人たちによって、ささやかな日常は形成されている。おじさんもその一人だ。

おじさんを見ない日があると、なんとなく今日の運勢は悪いような気がしてくる。それが何日も続くと、若干鬱になる。もう私は彼を木造アパートの妖精か何かだと思っている。タンクトップ姿で煙草を吸う妖精がいたっていいじゃないか、とひとりごちる。そして数日後に再びおじさんを見かけると、自分でもびっくりするくらい安堵する。ついには、おじさんの存在を確認した瞬間から通り過ぎるまでに、願いごとを3回心の中で唱えるようになった。おじさんは流れ星になってしまった。

暫くして、私はある一冊の本を読んだ。

オリヴァー・サックス『見てしまう人びと 幻覚の脳科学』

神経学者である著者が、患者や自身の実体験をもとに幻覚という現象と症候群、それを経験する人間の心と脳について追求する素晴らしい一冊だ。医学エッセイと聞くと身構えてしまいがちだが、サックス独特の温かみのあるユーモアと、この不思議な現象を引き起こす人体への愛のようなものが文体に滲み出ているので個人的にはとても好きだ。

通常の視覚的想像と実際の幻覚は主観的にだけでなく生理学的にも明確に差異があるらしく、幻覚はほぼ知覚に近いという事実はかなり興味深いものだった。つまり、脳と心は幻と現実を区別していないということらしい。

なんで急にこんな話をし始めたかというと、この本を読んでいる途中にある一つの仮説が浮かび上がってきたからだ。

あのおじさんは私の脳が創り上げた幻覚ではないのか

この疑念がフッと頭に浮かんだ時、あまりのくだらなさに鼻で笑ってしまった。「おい、そんなことを考えている暇があるなら働いたらどうなんだ」というセルフ野次を飛ばす始末だ。
第一あのおじさんが幻覚か否かを知る方法なんてないし、仮に幻覚だったとしてもだからなんなんだ、という一言に尽きる。幻だろうが現実だろうが、私はあのおじさんを見かける度に阿保みたいな顔して3回願いを心の中で唱えることだろう。

こうして真実を知ることもなく、私の日常は続いていく。あまりにもくだらなく、錠剤一錠に左右される脆い日常が。
また、大きな鬱の波に飲み込まれたら次は帰ってこれないかもしれない。もう全てを投げ出してしまうかもしれない。体力は衰えていく。まだ若いから、という免罪符はいつか使えなくなる。

今の自分の現状を真正面から見ようとすると、自分の中で警報が鳴る。ほぼ無職のろくでもない人間が目の前に現れるからだ。小学生の時の私が今の状態を見たらあまりのショックに失神してしまうかもしれない。いつ消えても差し支えのない人間。何も遺らないと言い換えれば清々しいが。

でも、と目の前の人間が口を開く。でも、それだけが現実じゃないだろう。想像力を捨てちゃいけない。と偉そうな口をきく。そのヘラヘラした面を渾身の力でぶん殴ってやりたいという気持ちと、せめて自分とは仲良くしてあげようという甘い気持ちがせめぎ合う。

でも、と対面した私は思う。結局どう足掻いたってこの身体で生きていくしかないのだ。自分の欠陥を責め続けたところで、そこには虚しい時間しか流れない。自分から見放されるのは人に見放されるよりずっと堪えるな、と思った。

ここは穏便にこれからどうすればいいのか、目の前にいる救いようのなさそうな人間と話し合いを続けていくのが賢明なのかもしれない。想像力によって現実を現実以上に豊かにすることだって不可能ではないはずなのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?