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珈琲日記#14 学部生ラストの課題をやる前に、小学生時代の「おうち時間」と今の自粛を考える。

珈琲日記で自分の思っていることを書くのはとても久しぶり。思えば、2年前の今頃にロンドンに留学していて紅茶ではなくコーヒーにハマってしまい、ロンドンの街で生きていて考えたことをコーヒーを飲みながら言葉にしていようというのが珈琲日記のはじまりだった。帰国後は、帰ってくるなんて1ミリも思っていなかった地元での生活になって考えたことの記録になった。春から東京に戻ることが決まり、そんな地元での生活を少しちゃんと記録しておこうというのが今回の目的である。

1月末になって、大学の期末試験や課題の時期になった。とはいえ4年だから、卒論が終わってしまえばほとんど課題などない。今、唯一残っているのがベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』の文献購読の授業で、自分が考えたことを書くエッセイ的なレポートだけ。自分が書きたいことを書けばいいのことなので、自由気ままに書こうかなと思う(そんなことを願う先生がとても魅力的)。そのための準備運動としてちょっとnoteを書いている。

今回のコーヒーは、近所の廃れた商店街に新しくできた自家焙煎のコーヒーショップのドリップパックを使った。地域活性化の取り組みは、地域内で生産されたものをブランディングして価値を高めるものが多いけど、コーヒーという海外から輸入したものを地域内で加工して販売することも行われている。コーヒーを飲むことがあまり習慣だとは言えない地元で、果たして”おしゃれな”コーヒーは通用するのだろうか?と一社会学徒として思うけれど、何かやろうと働きかける人の姿を地元で見られるようになったことが嬉しくなる(上から目線になっている書き方になっているが、そうではない...)。

第6波で、再びおうち時間に戻った。
高校に通学できなくなった弟がオンライン授業を受けている音が、ドアの向こうから聞こえる。2階では、本来ならば東京の専門学校に通っているはずの弟が期末課題をやっている。そして私は、本来ならば東京の大学に通い東京での生活をもっと謳歌しているはずだったのに、そんな弟たちの姿を感じながらこうやって陽だまりの中でつらつらと思っていることを書き留めている。

思えば、きょうだい3人が家にいるのは10年ぶりくらいだろう。自分が小学生の夏休みはそんな感じだった。オールドタウン化した住宅街に、父親だけ戻ってきて新たにマイホームを建てたから、周りには子どもがおらず、友達と遊ぶ概念がなかった。都市計画の下で宅地分譲されなかった集落だから、公園がなくて、車社会で大人がいなければ遊ぶこともできなかった。図書館は学区外だったから、学校の校則的に子どもだけでは行けなかった(ひどい)。
だから、共働きの我が家(しかも福祉関係だからお盆や休日の概念が薄い)の3きょうだいは、夏休みの間ずっとうちに籠ってそれぞれができることをした。暇だったから、夏休みの宿題は7月中に終わってしまった。そのあとは、母親が買い込んだお菓子を猛烈に食べながら、DSをしたり『ちゃお』を読み込んだ。なので、夏休み明けはぶくぶく太っていた。楽しみは、1日1本と決められたスーパーのお徳用パックのアイスを、黙ってもう1本食べることだった。
弟たちは幼稚園か小学校低学年だったので、自分が面倒を見たしお昼ご飯も作った。思えば、自分は「ヤングケアラー」に該当した。一人っ子だったら、もっと自分は自由だっただろう。習い事をして何かの体験教室に行って....。不自由な夏休みは、子ども会のラジオ体操とお囃子の練習以外は「おうち時間」だった。
だから、夏休みが大嫌いだった。

多くの学生が首都圏の中高一貫の学校出身者の大学に通うと、いかに自分が小学生の頃の時間が悲惨だったかが分かる。彼らのように、親と一緒に博物館や美術館、ミュージカルに行きたかった。お盆休みにおじいちゃん家に行って自然の中で走り回りたかった。自然体験のキャンプに申し込んで色んな子どもたちとどこかに行きたかった。小4頃から塾に通って、小学校の勉強以上の知識を得てみたかった。

親や家庭環境を恨んでいるわけではない。おうち時間な夏休みを送っていた経験があるから、きっと今のおうち時間も嫌々ではないし、社会学することが増えた中で自分の経験があったから格差や階層、家族や子どものあり方に対して色んな思いを馳せることができている。

最近、パートナーと電話をしていてこんなことを言われた。

「そういう経験があったから、今の○○がいるんだよ。」

苦い経験が、今の血肉になっている!原動力になっている!と単純に回収したくないのが本音だ。でも、社会的に見たら「恵まれている」位置にいながらも、その位置に甘んじることを嫌い、色んな思いを抱えてモヤモヤしている自分が「存在する」のは、この経験があったからであろう。

自粛しないことに対して、コロナ禍になってずー--っとイライラしていた。それは、単にリスクの高いことをしていることへの憤慨とか「自分、自粛してる!エライ!」という優越感とか自粛警察のような正義感とかではなく、自分の育ってきた社会的な位置と今の自分が「ひとり」で立っている位置のギャップに苛まれていることの現れだったということに気づいた。自粛したくてもできずに外で働く人がいる。自粛以前にずっと施設で暮らさないといけない人々がいて、それに葛藤しながら支える人がいる。一方で、この状況の中でも国内・海外旅行を楽しむ人もいる。このような人が「具体的な他者」になっている自分は、いたたまれない思いを抱えてしまう。

「そんなこと考えなくて、自分の幸せだけを考えていいんだよ?考える必要なんてないよ。」と親身になって言ってくれる人もいる。だけど、自分はそれだけで生きたくない。隣人を思う/想うことをしながら、自分がそれに対して言葉にすることをしたいんだ。

そんなことに気づいた学部4年の最後だった。
地元にできたショップのコーヒーは、苦くて渋くてごちゃごちゃに感じた。正直いって、あまりおいしくないからスタバや東京のコーヒーショップの取り寄せをしたくなる。お店の先行きが不安になる。でも、合理性や効率性なおいしさではない地元のコーヒーをいとおしくなってしまう。こういうのも、悪くないよねと言いたくなる自分がいる。そんな自分と、その感情を大切にしたい。

余談。
コロナ禍で、むかしは大嫌いだった乃木坂46にハマってしまって早2年。ありきたりかもしれないけど、『世界中の隣人よ』はこの社会のあり方を歌い、やさしく人々を抱きしめている。

そうさ 人間は捨てたもんじゃない
会ったことのない誰かのため支え合って
すべてを乗り越えられる強さを持ち
未来に続く希望を信じてる
https://www.uta-net.com/song/286761/, より)

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