「オープンレター」は呉座氏排除の要請文書と解すべき理由

「オープンレター」…もはや固有名詞化した「女性差別的な文化を脱するために」という公開書簡ですが公開後の事情で様々な問題点が生じています。

そこで、起点となる「オープンレター」の意味内容に立ち返って、その内容の性質について特定していきます。

「オープンレター」の内容の効果に関する論点

「オープンレター」の内容による効果の問題として、考えられるものは上掲の3つでしょう。

先に③について
「オープンレター」が呉座氏の実質解雇に「影響を与えた」という点に異論は無いです。呉座氏の消されたブログに掲載された日文研からの懲戒理由の一つとして載ってるわけですからね。

しかし、【因果的に寄与したか】と言えるかというと、それは無理でしょう。「オープンレター」は名宛人を特定していませんし、執るべき手段を特定してもいませんから。もしもこれを認めたら『マンガを見た人が真似して犯罪行為をした』に対しても因果関係を認める事になり、規制の根拠となります。ここの考え方を間違えると、危ない方向に向かっていくでしょう。

単なる影響と因果的寄与。この違いは、たとえばオープンレターが呉座氏の名誉毀損であるとされた場合に、賠償額の算定に影響を与えるかもしれない。批判しました⇒その後に不当解雇されました=批判者は不当解雇の責任を負うべきだ、という認定が行われる社会は余りにリスクが大きい。それは一種のキャンセルカルチャーとなるだろう。だからこそ本件での因果的寄与の認定は避けなければならない。

こうした現実の影響面とは別個に「オープンレター」の内容に客観的に呉座氏排斥の意思が認められるか、という問題点が①の課題であるが、これについては後述する。

②について
呉座氏は北村氏と和解してるし、これ以上揉める事は避けたいと思ってるから、和解前に為されたオープンレターの差出人や賛同者に対して呉座氏が名誉毀損で訴える可能性は低いと思われる。

ただ、呉座氏の(学問上の)名誉を積極的に回復・防護する目的で、名誉毀損的表現について特に「(呉座氏が)歴史修正主義に同調するかのような」と書かれていた点についてはどういう根拠なのかが問い質されなければならないだろう。この論評の前提事実が存在しているか?というとかなり厳しいと思われる。呉座氏が懲戒請求を受けた原因となったツイートは100を超えていることを呉座氏が言及していたが、少なくとも批判者らから言及されたツイートで歴史修正主義に同調するようなものは現時点では見当たらない。
(批判者らがこれがそうだと言っているものがあるが後述)

1300人も賛同したレターの内容についてのものなので、特定人への制裁というよりも「界隈」の論法の問題として論じるのが良いだろう。もっとも、個別にツイート等をしている者には個人に対する批判は可能。

そして①だが、この検討は「オープンレター」の管理に関する道義的責任にかかわる話になり得る。単に名宛人不在で主義思想の主張をするだけなら署名の管理が多少杜撰であってもそこまで問題にならないだろう。大勢の人間を巻き込みながら特定人の排斥を企図している(と解せられている)からこそ重要な問題として扱われる(名宛人特定の場合も具体的な成果を求めているのだから、管理の杜撰さは問題だろう)。

「オープンレター」の内容の性質の概要


オープンレターの性質については大きく
・呉座氏排斥の要素がある
・呉座氏排斥の要素は無く背景にある社会的問題・構造を論じたものだ

という理解があります。

読み手によっては後者の理解になり得るものだろうとは思いますが、客観的標準的には前者の理解になるだろうというのが私見であり、本稿はそれを示すために書いています。冒頭リンク先の記事では論拠をざっと論じている。

この結論に至った根拠を概観的に挙げると以下になります。

①呉座氏に関する不必要な言及が多い
②呉座氏に対する追加制裁を示唆する文節が散りばめられている
③「慰安婦問題に関する歴史修正主義」という無関係な話題を持ち込んでいる
④「不均衡な状況」を理由に「キャンセルカルチャー」を否定しない
⑤研究・教育・言論・メディアにかかわる人びと以外の肩書の署名賛同者⇒結局、【表向きのキレイな趣旨】は違うよね

それでは、以下からようやく本題に入ります。

①不必要な呉座氏に関する言及が多い

「オープンレター」の【表向きのキレイな趣旨】を上掲記事で特定しているが、『呉座問題の背景にある仕組みをより深く考え、同様の問題が繰り返されぬよう行動することを、広く研究・教育・言論・メディアにかかわる人びとに呼びかけるもの』であり、複合要因の一つとして『ネット上のコミュニケーション様式』があり、それは『マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式』であり、それと男性中心主義とが相まって中傷や差別的言動を生み出す文化が生まれているので、そこから「距離を取る」ことを呼びかけるもの、と言える。

「オープンレター」では「呉座」の語が合計で14回も出て来ている。そこには「呉座事案をベースにして背景の仕組みを考える」という「オープンレター」の設計思想による必然的なものがあり「だからこそ呉座に触れることは問題無い」という反論があり得そうだが、「背景の仕組み」を本当に考えているなら不必要な情報が多過ぎる。

私たちは、呉座氏のおこなってきた数々の中傷と差別的発言について当然ながら大変悪質なものであると考えますが、同時に、この問題の原因は呉座氏個人の資質に帰せられるべきものではないとも考えています。
 呉座氏の発言の中には、単なる「独り言」としてではなく、フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」の中で産出されたものが多くありました。たとえば誰かが、性差別的な表現に対して声を上げることを「行き過ぎたフェミニズムの主張」であるかのように戯画化して批判すると、別の誰かが「○○さんの悪口はやめろ」とリプライすることがあります。こうしたやりとりは、当該個人を貶めるために、「戯画化された主張を特定個人と結びつける」手法としてパターン化されています。そこには、中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化が存在していたのです。実際には、呉座氏の発言は大きな影響力を持っており、この「仲間うちの遊び」は3000人以上のフォロワーの目に見える形でおこなわれていたものでした。つまりその「遊び」の文化は、中傷や差別的発言をいわば公衆の面前でおこなわせてしまうものであり、そのことが今回の問題の背景にあると私たちは考えます。

呉座氏個人の資質に帰せられるべきものではない」という一種のエクスキューズが入っているが、これは「文化を論じているのだ」という建前の設定だろう。この文章の中で、「3000人以上のフォロワー~」のくだりはまったく不必要ではないだろうか。「呉座氏の発信力の大きさ」は文化の存在とは関係無いし、「公衆の面前で~」は、単にTwitterというネット上の媒体を利用することで公衆送信している時点で話として成立する。「非公開アカウント(鍵アカ)だが不特定多数の者に見られることで影響力があること」というのは本件に特有のものではなく、Twitterの機能の話だろう。この部分は、一般的なネットの機能を語ることで十分説明可能であるにもかかわらず、それを「文化」の話に無理やり紐づけるために「呉座事案」を持ち出しているにすぎない。

性差別的な表現に対して戯画化された主張を特定個人と結びつける手法」とあるが、こちらについても、何も性差別的な表現に限らず、ありとあらゆるトピックにおいて行われている陳腐なものだ。「主張AをA'にして批判する」というのは単なるストローマン論法であり、一般的な議論の誤謬で説明可能な概念。それを受けた後の「おっと、〇〇さんの悪口はそこまでだ」という定型文化したコメントをするというネット特有の文化は存在するが、これもやはり女性差別の文脈に限定されず一般的にみられるもの。

つまり、一般的に行われている要素と性差別的な表現に対する特有の要素の切り分けが全くできていない、いや、やる気がない。「自分らが性差別的と考える表現についての批判が逆批判されたら、それは性差別的表現批判に対する特有の反応としての誹謗中傷である」という考えでないと、こうはなり得ないだろう。振り返ってみれば、こうした論じ方は「オープンレター」界隈の常套句であり、多くの人間はその我田引水・ゴリ押しの論じ方を批判しているのが実情だ。

女性差別的言説の「文化」としてあり得るとすれば、その後の記述にある「男性のほうこそ被害者であると反発するためのコミュニケーション様式」だと思う。確かにこうした言説を目にすることはある。それでも「文化」として広く定着していると言えるかというと、そこはネット空間や各所の言論空間を網羅的に見てきたわけではないので分からないが。

②呉座氏に対する追加制裁を示唆する文節が散りばめられている

呉座氏の中傷発言を、いち個人の行き過ぎた発言であり氏と中傷された女性研究者とのあいだで解決すべき個人的な問題である、と主張することには大きな問題があります

「オープンレター」には「単に個人間の問題とするべきではない」という主張がある。この文節の見方は「文化の問題として捉えろ」というのが【表向きのキレイな趣旨】に則った読み方だろうが、上掲のように「呉座」に関する言及が多い上にその文面からは『呉座と他との関係でも解決すべき問題がある』と言っていることになる。最初の「呉座氏個人の資質に帰せられるべきものではない」という語もある関係で「個人間の問題にとどまるものでは無く、社会的な問題でもある」という主張は理解できるが、「解決すべき」と言っているのだから、そこには「争い」となっている相手方の存在を想定せざるを得ない。

もちろん、この文節だけでそのような理解を断定するのは難がある。しかし、その後の論述として呉座氏の発信に対して『中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化が存在していたのです。」と指摘した上で、「同じ営みにかかわるすべての人に向け、中傷や差別的言動を生み出す文化から距離を取ることを呼びかけます。』と主張し、その例示として「仕事をしない」ということまで含めている。

 要するに、ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。

「~今回の一件をうんだと私たちは考えています。」の後に「このような仕組みが残る限り、また同じことが~」で締めくくらず、ここでも「呉座」と「その近しい人々」に目を向けて「責任を問われないのはおかしい」とでもいわんばかりに言及している。ここまでの論述で「呉座」の語が14回出て来ていますが、この部分も「文化」や「背景にある仕組み」について論じることが目的の文章であるとするなら不要な箇所だ。

距離を取る」ということで実際に何ができるかは、人によって異なってよいと考えます。中傷や差別的言動を「遊び」としておこなうことに参加しない、というのはそのミニマムです。そうした発言を見かけたら「傍観者にならない」というのは少し積極的な選択になるでしょう。中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうるかもしれません。何らかの形で「距離を取る」ことを多くの人が表明し実践することで、公的空間において個人を中傷したり差別的言動をおこなったりすれば強い非難の対象となり社会的責任を問われるという、当たり前のことを思い出さなければなりません。

ここでの「距離を取る」は言うまでもなく比喩表現であり、物理的に人や空間から遠くに移動するという原義の意味ではない。そのため、複数の意味合いを含めることが可能で、それが例示にも現れている。ただ、「悪い文化」の存在はこの論調だと呉座氏に紐づいていると書かれていることになっている。もともとそういうノリ=悪い文化がネット空間・日本の言論空間に存在していて、呉座氏がそこに乗っかった・浸かったという意味もあろう(ここは不鮮明。この文章の展開の仕方では「呉座氏がその周囲に作った文化である」と読めてしまう。最初に「文化」を指摘したパラグラフを見よ)。しかし、呉座事案をベースに論じているせいで、「悪い文化」の所在がふんわりとした幅のある社会における言論空間というものを超えて「呉座氏周辺の言論空間」という意味としても理解する余地が大きくなっている。また、「文化」ならば対応する言葉としては「同調しない」や「拒絶」や「解消」といったものが標準的であるところ「距離を取る」だと原義のニュアンスとして人から離れるという要素が入って来る。

「悪い文化」に「参加しない」は「ミニマム」であるという言葉、そして「公的空間において個人を中傷したり差別的言動をおこなったりすれば強い非難の対象となり社会的責任を問われる」というこれまた呉座事案を念頭に置いた論じ方からすると、「距離を取る」の手段としては複数の方法があり得るとしているものの、「オープンレター」側の希望としては「傍観者にならない」以上の措置を求めているものと理解する他ない。

こうした文章展開・構成により、「距離を取れ」は、当時既に所属機構から厳重注意処分を受けていた呉座氏に対して追加的な制裁を求める趣旨を含むものであり、所属組織とは関係無くとも呉座氏に近い者らに「村八分」の対応を求めるものと解す余地が大きい。

③「慰安婦問題に関する歴史修正主義」という「女性差別」とはかけ離れた話題を持ち込む

 このような、マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式は、性差別のみならず、在日コリアンへの差別的言動やそれと関連した日本軍「慰安婦」問題をめぐる歴史修正主義言説、あるいは最近ではトランスジェンダーの人びとへの差別的言動などにおいても同様によく見られるものです。呉座氏自身が、専門家として公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていたことからも、そうしたコミュニケーション様式の影響力の強さを想像することができるでしょう。

【ネット上のコミュニケーション様式】にはその内部類型として「性差別的な表現に対して戯画化された主張を特定個人と結びつける手法」と「男性のほうこそ被害者であると反発するためのコミュニケーション様式」が文中に登場する。それらは『マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式』として再構成されている。

「オープンレター」では、「ハードルを下げる様式」は性差別のみならず、「在日コリアン」や「トランスジェンダー」への差別的言動などにおいても同様によく見られるとしています。「女性差別的な文化を脱するため」と銘打っておきながら関係ない話を持ってきているが(他の場面でも見られるというなら(女)性差別に特有の話じゃないではないか、という突っ込みをしたくなるのを押さえて)、まぁそういう様式が他の場面でも見られるということで「文化」の存在を示したいんだろう、或いは広く「マイノリティへの攻撃」として同じ部類に属する者にも同種の攻撃が加えられていることを示すという意味であると言いたいのだとギリギリ理解しておく。
(※追記:日本国内における男女の人口比率は昭和20年前後から女性が多くなっている状態が続いていることからすると奇妙。アカデミアにおける女性教授など、特定界隈での男女比率が念頭にあるのかもしれない。ただ、その場合はもはや特定事例としての意味しか無く、在日コリアンやトランスジェンダーを引き合いに出すのはやはり不適当。)

しかし、【日本軍「慰安婦」問題をめぐる歴史修正主義言説】というものは、いったいどういうことだろうか?明らかにこれは(国際)政治マターになっている事項であり、(学問上の厳格な理解に差異があるのかは知らないが)見解にかなり相違がある話。見解にちょっとでも違いがあれば歴史修正主義だと言う者が目立つ領域だ(強制連行肯定派の論調)。それを「女性差別的な文化を脱するため」と題して北村氏への誹謗中傷事案をベースとした論調に組み込んだ上で賛同人を集めるというのは、一般的な観点からは署名として不適切だろう。本当に「背景にある仕組み」を考えようとしているのだろうか?と疑問が出てくる。

※呉座氏があいちトリエンナーレ2019に関連してTwitter上で表現の不自由展を批判する百田尚樹のツイートにいいねをしていたことを「歴史修正主義に同調」の根拠にする者も居る
※ラムザイヤー教授の慰安婦に関する論文を肯定するツイートにいいねをしていたことで歴史修正主義に共感的とする主張⇒https://hbol.jp/241894/2/
※日本政府の調査によって動員レベルの軍関与(による強制連行)が認められなかったという事実についてのツイートに対して「歴史修正主義的」と評する者⇒https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/137817/8c1b9642f73e022e8cab9084b3d75e42

④「不均衡な状況」を理由に「キャンセルカルチャー」を否定しない

 このような呼びかけに対しては、発言の萎縮を招き言論の自由を脅かすものであるいう懸念を持つ方もいるかもしれません。近年では、そうした懸念は「キャンセル・カルチャーなるものへの警鐘という形で表明されることがあります。すなわち、問題ある発言をした人物が「進歩的な」人びとによる「過度な」批判に曝され責任を追及されることが、非寛容と分断を促進するという懸念です。
 しかしながら、こうした懸念が表明される際にしばしば忘れられているのは、「問題ある発言」が生じてくる背景に差別的な社会の現実があるということです。差別を受ける側のマイノリティにとっては、多くの言論空間はそもそも自分にとって敵対的な、安心して発言できない場所であり、いわば最初から「キャンセル」されているような不均衡な状況があります。
 私たちは、政治的対立のある事柄について人びとが発言することを抑制したいのではありません。そうではなく、被差別カテゴリーに属する人びとを貶め気軽に個人を中傷することを可能にしている文化こそ、むしろ言論の自由を脅かし、ひいてはマイノリティの生を脅かしているということに注意を促したいのです。

この文章は「キャンセルカルチャー」を積極肯定していないが、否定していない。キャンセルカルチャーに対してどう考えているのかが分からない。自分らの呼びかけはキャンセルカルチャーではない」なのか、「キャンセルカルチャーと呼ばれるようなものも、最初からキャンセルされているような不均衡な状況にあるマイノリティとの関係ではそう呼ぶべきではない≒キャンセルカルチャーを行使しても良い」という意味なのか。

しかも、その後に「政治的対立のある事柄について人びとが発言することを抑制したいのではありません」と言っている。「政治的対立のある事柄」という限定をわざわざ設けていることから、「そうではない事柄の場合には抑制しても許される」という意味を感じ取るな、と言う方が無理な話だ。

そうである以上、「キャンセルカルチャー」が想起する「解職」という効果をこの文章が求めていると解することに対して軽々に否定できるものではないということは、この部分の記述だけでも言える。

⑤「研究・教育・言論・メディアにかかわる人びと」以外の肩書の署名賛同者

「オープンレター」は「研究・教育・言論・メディアにかかわる人びと」に呼びかけるものであるといいながら、実際には署名時に肩書やメールアドレスを任意にし、誰でも署名できるようにしている。そのせいもあって管理上の問題が発生している。

一方、東京大学の三浦教授に対する東京大学関係教員らの抗議声明。これもオープンレターでしょう。こちらは見事に学内の教員(+学部・院の卒業生である他大学の教員など)らで揃っている。

三浦教授は一部口調を反省しつつも基本姿勢は変えねぇよ、という応答をしてそれで終了しているようだが、本来はこうするべきだろう。それだけでも60名弱が名を連ねている(北村紗衣や隠岐さやかも署名している)。

結局、「オープンレター」の場合、【表向きのキレイな趣旨】を書き連ねては居るけど、本心は違うよね、狙いは別にあるよね、ということがここから滲み出ていると言える。最初から明示されている目的とは関係の無い人の署名があるんだから。最初から一般人も署名に含める目的だったなら「~に加え、広く世間に呼びかけるものです」というような一文すらないのは手落ちだろう。

それに「誰もが参加できる自由な言論空間」など目指してないでしょ。
「オープンレター」の文面からは外れるが、差出人や賛同人が言論空間を窮屈にする活動をしている人が多いですよねと。

ラムザイヤー教授絡みでも差出人の山口智美や賛同人の茶谷さやかが居る。茶谷さやかに至ってはラムザイヤー教授の論文への難癖をつけるオープンレターを作った(学術論文での反論ではない)挙句に日本語についての捏造した理解を海外に振りまいている。

まとめ

以上より、「オープンレター」には少なくとも呉座氏排斥の要素が含まれており、全体を見れば呉座氏追加制裁・排除の要請文書と解すべきです。

一般読者のすべてが「オープンレター」を好意的に読むとは限らない。好意的に読むという態度は「都合よく解釈する」へと無限に収束していくものであって、「本当はそうじゃないんだ」と言ったところで文章の瑕疵は治癒されません。

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