無題

夜10時、会社を出て森田と駅まで歩く。
「昨日本屋で万引きが捕まるとこ見たんすよ、なんて言うんすかああいうの、私服警官的な?Gメン?」
「森田が本屋に行くことにまず驚いたわ」
「なんすかそれ、知的好奇心が満たされますよ本屋は」
まさか森田から知的好奇心という言葉が出ようとは。
「お前本屋で何買うの」
「え、ヤンジャンとか」
そう言って森田は自分でげらげらと笑った。
「あーかっこいいっすよねああいうの、おれGメンに転職しよっかなー会社立ち上げたら土井さん来てくださいよ」
「やだよ、お前の会社って脱税とかしてそうだし」
「うわ、なんすかそれーってか大丈夫っすよ俺脱税できるほど頭良くないし、土井さんなら即採用しますよ、まあ一応形だけ履歴書送ってくださいね、コネってことは内緒ですよ!ひゃひゃひゃ」
森田は入社した瞬間からやたらと言葉数の多いやつだったが、二年経った今も変化は見られない。「っていうか増井さんって昇進してから働き過ぎじゃないですか、あの人いつ家帰ってるんすかね、てか帰ってない説ありますよね、ああ俺出世したくないなー」などとひとりで話し続ける。
「出世したら給料上がるよ」
「土井さんって金のために働いてるんすか」
「金もらえないなら働かないよ」
僕の答えが答えになっていないことに気がついているのかいないのか、森田は質問を続けた。
「土井さんって何考えてるか分からないってよく言われません?」
「言われない」
「あ」と言って森田はコンビニに吸い込まれていく。 
何を考えているか分からないとは言われないが、秘密が多そうとは言われる。秘密にするほどのことは何もない。かと言って積極的に自分のことを話そうとも思わない。話すほどのことは何もない。上司の増井がサッカー好きであることも、隣の席の水野さんの趣味がドラッグストア巡りであることも知っているが、いつどのように知ったのか思い出せない。恐らく何かの折にそういう話になったのだと思うが、何かの折に自分のことを話すということができない。そして別段、それをしたいとも思わない。
森田はカゴに次々とストロングゼロのロング缶を放り込んでいく。僕の視線に気づいたのか、森田は「なんですか」と言った。母親じみたことを言うのも変だと思い、「いや別に」と言っておく。
手ぶらでコンビニを出るのもつまらないので、発泡酒とサラダ味のじゃがりこを買った。森田の持つビニール袋は、ストロングゼロの重みで持ち手が伸びている。
「ときどきこういう呑み方しちゃうんすよねー。明らか体に悪いけど、そういうことしたくなることってないっすか?ぜつぼーしたいっていうか、まさか放火とかして回るわけにもいかないし」
確かに放火はやめておいた方が良いと思う。しかし緩慢な自殺のようなこともやめた方が良い。
「土井さんも嫌でしょ、後輩が放火で逮捕されてインタビューされるの。週刊誌に載っちゃいますよ週刊誌に」
「ヤンジャンにか?」と冗談で言うと、「いや、ヤンジャンには載らないと思います」と真顔で返された。

駅に着く。「じゃ、お疲れっす」と言って森田は僕とは反対のホームへ、階段を上り始める。コンビニの袋が重そうに揺れていた。

翌日から出張で、三日ぶりに出社すると森田の机がしんと片付いており、僕の机には饅頭がひとつ置いてあった。隣の席の水野さんが「森田さん、突然辞めちゃったんですよ」と話しかけてくる。「理由はよく分からないんですけど」
「Gメンになるとか、言ってませんでした?」
「はい?」
「いや、なんでもないです」
「そうそう」と言って水野さんは大きなコンビニの袋を差し出す。「これ、森田さんから」
「なんですか」
「じゃがりこだそうです。他の人はそのお饅頭だけで、土井さんだけですよ、プラスアルファでじゃがりこなんて貰ってるの。じゃがりこお好きなんですか」
「嫌いではないです」
「じゃがりこってやっぱりサラダ味が一番だと思うんですよねー」と言いつつ水野さんは仕事を再開した。僕もじゃがりこはサラダが一番好きだが、言いそびれた。言わなくてはならないようなことではなかったと思うが、こうして僕はじゃがりこの何味が好きなのかを秘密にする人間になってしまうのだなと妙に納得した。

コンビニを出たあとの森田の言葉を思い出す。言おうとしていることは分かると思った。はっきりとした絶望もなければ、希望もない。徐々に酸素濃度の低下する水槽で飼われている金魚のようなものだ。酸素濃度は低下していることにも気がつかないほどの遅さで低下して、ある日突然息ができなくなるのだと思う。仕事だけではない、ありとあらゆることにおいて。死ぬことによって死ぬのではなくて、生きていかれなくなって僕たちはきっと死ぬ。
分かると言えば良かっただろうか。しかし、分かると思ったことは僕の思い上がりかもしれない。森田の心には僕よりも遥かに深い谷があったのかもしれず、その谷を覗くことができるのは森田だけなのだ。その谷の深さも暗さも、彼だけのものだ。

森田に連絡しようかと思ったが、結局していない。疎遠になりそうな相手に連絡せず、完璧に疎遠にしてしまうのも僕の良くない癖だ。森田のくれたじゃがりこは、全てサラダ味だった。


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