詩について

誰も書かないであろうことを書くこと。これには一定の価値というか、やりがいというか、面白みがあると思う。

一方で、普遍的な内容を目指すという方針もある。

この二つを両立させることができたら、それは凄いな。


自分が以前書いた詩を読んでいて「美よ、不思議よ、尊敬よ。」というくだりを発見した。こんな、あまりにも単純な語彙で、まあ誰も言わなそうな表現をしたことに我ながらちょっと感心した。

鋭い表現では別にない。むしろ、読解力の高い人にかかれば、この3つの単語におそらく大した脈絡や関連がないことは見抜けてしまうだろう。

この表現には特に意味はないだろうし、仮になにかのことを言ってるのかもしれなくても、説明が少ない時点でそれについて読者が理解できる必要なんてなく、ほとんど雰囲気だけの表現であるという程度のものにすぎない。すぎないとはいえ、詩が「雰囲気だけの表現という程度にすぎない」ものであってなにが悪い? どんな内容の詩だってありうるだろう。メッセージや意味が必ずしも重要なわけではないと思う。

「美よ、不思議よ、尊敬よ。」は、思いっきりはっちゃけたというか、いかにも詩っぽい言い方をしちゃった点、リアリティが弱いというか、わざとらしすぎるんだよねw 普通なら誰もそんな言い方しないだろっていう。読んでて「お前誰だよ! (大御所か!)」みたいなリアクションが出てくるというか(笑)。

日本人って、「我こそは」みたいなニュアンスの内容を作るのが苦手で。だいたいなんか感傷的だったり、愚直すぎたり、繊細なものが多いというか。


詩は単に言葉の上での一風変わった表現というか、「言葉のフィクション」なわけであって、別にエモいことを言わなきゃいけないとかはないはずだ。だけど現実には、エモいことを書いたものが目を引いたり、詩らしい詩とみなされたりして、そういうものを読みたくて書きたい人が集まって詩の界隈が出来ているような節がある。

それはそれで別にいいけど、「エモい」とは関係ないところにある詩に、僕自身は興味がある。もう一度言うけど、詩は単に言葉の上での創作物だから、その内容は、エモくも、女々しくも、雄々しくも、サイコパスにも、優しくも、人格者にも、ギャグにも、どんな風にでもなれる。そこのところで、ともすれば幼稚な願望や人生観を表すという失敗に簡単に陥ってしまったりする。

単に詩的表現というだけで、言ってること自体は馬鹿馬鹿しいというか(馬鹿馬鹿しいだけならまだ全然マシで、それどころかむしろギャグになってたりするんだけど)、詩で作者のワガママとかが表現されていたりすると、まあ目も当てられないわけです。

で、しかし、そういうものが支持される現実があったりする。恐らく、読んでる人が「ああ、そういう風に主張してしまっていいんだ」と、一種のカタルシスみたいなものを感じてる可能性がある。ワガママな内容を、読者が共感して自分のことのように読める・読むというのであれば、僕がそれを咎める筋合いなんてないけど。

他でもない僕自身が、排他的な内容の詩を好きだから、人のことを言えた立場ではない。僕の詩は、ワガママでこそたぶんないけど、自惚れや自己陶酔、高踏趣味を、戯画風に(と自分では思ってる)だけど取り扱う作風をしていて、とても鼻につく内容だと思う......。それも、戯画、つまりコミカルになりきれずに、ギャグで言ってるのか真面目に言ってるのか読者が判断しかねるくだりもきっとあると思う。そこらへん、まだ試行錯誤中。

雑記終わり。

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