見出し画像

何者 であろう、か

 この世界に溢れている人の数だけ心があるとして、それはどんな色、形、香り、感触をしているのだろう。

 ふいにそんなことを思い浮かべながら、開いたままの本をそのままに空を仰いで、どれくらいの時間が経ったのか。それは、風に舞う木の葉がこの公園を横切るほどの時間に等しいものであった。それを観測しているものは誰もいない。仮に少女以外の何かがいたとして、そんな物好きはいるであろうか。ほどなくして少女は、ほとんど無意識に本を閉じて、そっと鞄にしまった。

 ――仮に私にも心があるとして、それは一体どんな姿なのだろうか。それを、私が、見ることは、できるのだろうか。

 何気なく胸に手を当てて、その鼓動を確かめる。しかし、鼓動を確かめたところでそこにあるのは心臓であって、心ではないことに、少女は気がついていた。気がついていながらそこを確かめてしまうのは、教育のたまものなのだろうか。それとも、洗脳なのだろうか。どちらにしても、そこに心を感じられないことは、知っているだろう。

「おや、何をしているのですか?」

 声に反応して少女が目を向けた先にいたのはいつものおじいさんであった。この公園の常連とでも呼ぶべき存在で、少女とは一緒に本を読んだり、話しをしたりと、なかなか仲がよかった。お互いにお互いのことを詮索することもなく、やさしいまなざしに声色、ゆったりとしたペースが心地よい人であった。

 おじいさんは少女の隣に座ると、改めて「こんにちは」とあいさつをする。少女はそれを受けて ぺこり 頭を下げると、おじいさんの顔をじっと見つめた。その視線に何かを感じたおじいさんは、

「おやおや、何か気になりますか?」

 と、聞いた。

 それでも少女はしばらく答えずにじっと見続けており、それに困惑も見せずにおじいさんは笑顔で待っている。前のめりになっていた少女は姿勢を戻した。

「ねぇ、おじいさんの心はどんな姿をしているの? それとも、やっぱり、自分の心は見えない?」

 不躾にも思えるが、それはすなおなまっすぐな言葉であった。それを知っているからであろうか、おじいさんは特に気に留めるわけでも、気分を害するわけでもなく、ふむふむ、と考えていた。

「そうですね、私にも自分の心は見えませんね。そもそも、心、というもの自体、見たことはありません」

 その答えにがっくりときた少女は、やっぱり、そっか、と小さくつぶやいた。それを見たおじいさんはにこにことした表情を崩さず、こんな話しをしてくれた。

「世の中にはね、心――というよりは感情に近いものではあるけれど、それを持たない人間がいます。しかし、会話として表れる言葉にいっさいそんなことを感じさせるものはなく、おそらく心を持たないなどと、気づく人はいないでしょう」

 一息ついて

「なぜなら、そもそも私たちには、心など見えるものではないからです。もともと見えないのだから、相手が――しいていうなら自分も含めて、心があるか、ないか、そんなもの、わかるはずもありません」

 それは先ほど少女が考えていたこととはまったく違うもので、混乱をしながらもとても興味深く聞いていた。

 風に舞う木の葉はどれだけの数、この公園を横切ったことであろう。少女はおじいさんと話しをしながら、ひとつの疑問を感じ、口にした。

「ねぇ、おじいさんは、何者?」

 それを聞いたおじいさんはまぶたを閉じ、数秒の間黙々として動かなかった。少女はそれを静かに待っていて、ようやくおじいさんのまぶたが開いたと思ったら、いつもの表情で笑む姿があった。

「それは、私にもわかりません。私かもしれないし、そこらにはびこるゾンビのような存在かもしれません。……あなたは、どうですか?」

 まるで時が止まったかのように、少女は動くことができなった。はっとして、先ほどおじいさんが数秒の間黙々として動かなかった理由がわかり、その決断の速さにむしろ戦慄を覚えていた。

 木の葉がどれだけ移動したかはわからないが、おじいさんは立ち上がると、

「そろそろ、お暇します。まだ、その質問は早かったかもしれません。ゆっくり、考えてみてください」

 ぺこり 頭を下げると、行ってしまった。

 取り残された少女はいまだその答えを見出すこともできず、その背を送りながら口に出せるものは何もなかった。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。