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10年前の3.11 10年後の3.11① 前震~被災·避難


<お知らせとはじめに>
※2020年3月12日、2021年3月12日 加筆

0. 東日本大震災をはじめ災害により犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。また、被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。

1. このシリーズの加筆·完結に伴い、この記事のタイトルを「9年前の3.11 9年後の3.11① 2011.03.09~11(被災直前直後)」から「10年前の3.11 10年後の3.11① 前震~被災·避難」に変更しました。

2. 東日本大震災当時の描写(地震、津波、被災など)を含んでいます。

3. 個人情報や個人の特定に繋がると思われる箇所は省略・改変しています。

4. 当時の出来事にこのような媒体で向き合えないまま10年が経過してしまったため、実際の出来事と相違が生じている場合があるかもしれません。

5.今も辛い思いをされている方がいらっしゃいます。また、普段は大丈夫でもふとしたきっかけで思い出して苦しさを覚える人がかなりいらっしゃいます。その際は状況に応じて声をかけたり、話を聞いてもらえると嬉しいです。


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 表紙は2011年4月に書いた私の日記の一部。収納用プラスチックケースに入っていたのを無理やり取り出し、数年ぶりに見返した。今回記録することよりは大幅に量が少ないが、私が忘れていた記憶を思い出させてくれた。

 今年もこの日がやってきてしまった。9年は長いようで短かった。当時小学生だった私は大学生になった。

 できればこの日を迎えたくなかった。

 大学の春期休業になり、私は実家がある岩手県に帰省している。地元の18時台のTV番組の県内ニュースに流れるのは震災の特集。復興に関連する映像が多いのだが、比較として震災当時の映像も流れる。私はそれを見るたびに「ああ、9年でこんなに変わってしまうのか」と思わされる。

 被災したときに私は岩手県陸前高田市に住んでいた。陸前高田市は岩手県沿岸地域の一番南にある市町村。広田湾のおかげで養殖業や漁業が盛ん。同市高田町の海岸には高田松原と呼ばれる美しい海岸があった。山あり海あり、そんな自然豊かな場所で私は生まれ育った。

 自然は私たちの生活を支えてくれるありがたいものであるが、時には私たちに牙を向く。先人たちの経験から、授業では何度も津波や地震の話をされたし、避難訓練も何度もした。津波てんでんこという話も知っていたし何度も先生に聞かせられた。「いつ来るかは分からないが、絶対に大きな地震や津波は来る」そう教わっていた。地震や津波の怖さはよくわかっていたはずだった。


* * * * * * * *


2011年3月9日。

 小学校の授業の4時間目が終わる10分ほど前に地震が発生した。当時の地震のことはあまり覚えていない。机の下に潜って揺れに耐えた。何度かこのような地震には遭遇していたので、驚きはしたものの、混乱は発生しなかった。私は窓の外で流れる津波注意報のサイレンを聞きながら、図書館にあった地震の本を読まなければいけないと思ったのを覚えている。

 結局地震の本を読んだのか読んでいないのかは忘れてしまったが、図書館にあった地震の本を飽きるほど読んだ私はふと「これは前震ではないか?」と考えた。

 その日は家に帰るとすぐに避難準備をはじめた。布団の横に財布や服やらを入れて布団の脇に置いた。寝ている間に大きな地震が来たらどうしようか、と気が気でなかった。


2011年3月10日。

 この日のことはほぼ覚えていないのだが、帰り道、白い曇り空とカラスが全くいない帰り道を下校した記憶がかすかにある。静かだった。でもこの記憶はもうあやふやで、もしかしたら間違えているかもしれない。


2011年3月11日。

 私は「実は地震はこのまま収束して、大きなものは来ないのではないか」と疑い始めていた。おとといの地震が前震かもしれないと疑いを持ってはいたが、同程度の地震が本震だったのを何度も経験していたためだ。また周りがが普段の生活となんら変わりない状態になったのもあった。一応、9日に荷造りした避難用のリュックの中身はそのままに家を出た。

 午後2時半。学校の5時間目授業が終わり、私は体育館で部活の準備をしていた。早く終わって家に帰りたい、そんなことを思いながら。


14時46分。

 突然、体育館の出口の方から聞いたこともない、長く大きな聞いたこともない音が聞こえた。什器が動いている音ではない、地面が震える音だった。部活の準備をする手が止まった。これは何の音だ、何の音だ、と頭が混乱している中(今までに遭遇した地震の地鳴りと比較できないほどの音だったため、この時点では地鳴りだということに気がつけなかった。)、今度は体育館の天井にあった照明がカタカタと鳴り始めた。

 「地震だ!」誰かが言ったのか、私が頭の中で叫んだのか。地震が発生したらやることはまず1つ、安全な場所に避難すること。しかし、私はその声でさえ処理が追い付かず、体が固まってしまっていした。そうしているうちに照明は今にも落下して来そうなほど激しく揺れ、体育館の2階の窓ガラスはいくつも割れた。私は呆然として見ていた。

 「こっちに来て!壁伝いに!」その日担当の保護者が叫んだ。私はハッとなった。ここは危ない、逃げなければ。揺れが続く中、何とか歩いて体育館の出口まで逃げた。地震の揺れは平衡感覚を麻痺させた。一歩間違えれば足がもつれて避難が遅れる、しかし足が思うように動かない。

 体育館の出口は扉の上に厚い壁があったので窓ガラスの破片は落ちてこない。逆に屋外に出てしまえば落ちてきた窓ガラスの餌食になる。当時はそんなことを考えている余裕はなかったが、安全な場所を言ってくれた保護者には感謝の意を示したい。

 扉が揺れで閉まらないように、また、体のバランスを崩してしまわないように保護者と当時いた仲間と肩を組んだ。揺れはまだ続いていた。減衰する様子もなかった。

 「もう一生この揺れが終わらないのではないか?」そんな考えが頭を何度もよぎった。必死に揺れに耐えながら外を見た。衝撃を受けた。窓ガラスは自由落下に沿って地面に積もりそうなほど落ちていたのだが、それよりも、目の前の地面がいくつも割れ、ピューピューと水が噴き出し、大きな沼と化していたことに衝撃を受けた。液状化現象。今や有名になったその言葉は、実際に見たことがなかった私には、混乱のおかげで理解できなかった。

 実際はそれほど揺れてないようだが、私には30分ぐらい揺れたと感じた。とても長かった。揺れが収まってからもそれが確信できずしばらくは肩を組んでいたと思う。ようやく落ち着いたと思われ、私たちは顔をあげた。

 私たちは体育館の横にある校舎の前まで移動した。後者にいた何人かの児童は既に移動していたはずで、私たちも彼らに倣って地面にしゃがまされた。その後続々と校舎から児童が出てきた。一緒に出てきた先生方はトランシーバーを持っており、中にいたのであろう先生と通信を取っていた。トランシーバーのノイズが酷かったのと、私自身もともと人の声が聴こえても言葉として理解できないのがあってか、先生が話していることはあまり聞き取れなかった。しかし「震度5!?」と先生が通信中に叫んでいたのは覚えている。

 弱い揺れがずっと続いていて、時々やってくる強い揺れに何度も襲われた。地震酔いをしていたのかもしれない。そのうち隣にいた友人が泣き出した。私はそれを「大丈夫、大丈夫」となだめていた。

 10分以上してからだろうか、揺れが比較的少なくなってきたように感じられた。周囲に落ち着きが戻ったとさえ思われた。先生からの指示で保護者が迎えに来た人は帰宅してよいことになった(震災後、この規則は変更されたと聞いたような気がする)。3月の初旬はほぼ必要な授業が終わり、5時間目までの授業が多かったためだ。この日も5時間目で終了だったため特に反対する意見はなかった。むしろ帰りたくさえあった。自宅にいた祖母の安否を知りたかったのだ。

 保護者が迎えに来た児童の十数人かが帰宅していった。私はいつ家族が迎えに来るかせかせかしていた。家まで走って帰るから保護者なしで帰らせてほしい、そう思いさえもした。

 その願いが叶ったのか、私がなだめていた友人の母親が一緒に私の家まで連れていってもらえることになった。ありがたかった。これで家に帰れる。祖母に会える。荷物を確認し、先生にさよならの挨拶を言おうとしたかしないかのとき、どこからか男の人の叫び声がした。

 「津波だ!」

 津波?私は振り向いた。なんだ、見えないじゃないか。いつもの風景じゃないか。何度も見た、春を待つ田舎の、見栄えもしない光景――

 数秒後、何かが視界に入ってきた。それはヘドロや土を大量に飲み込んだせいだろう、とても黒かった。津波だった。「逃げろ!」数人が口々に叫んだ。私は逃げた。周りも必死になって逃げた。一応運動をそれなりにしていたはずだったのだが、うまく走れなかった。呼吸がしづらかった。喉が痛かった。

 避難した場所から先ほどいた校庭が見えた。校庭は跡形もなく消えていた。黒い津波が私の見知った風景を簡単に飲み込んでいった。

 ふと気づいた。津波の先にあるのは私の家、そして祖母。私は泣き叫んだ。先ほどなだめた友人になだめられたのだが、それでも涙は止まらなかった。

 どのくらいそこにいたのかいなかったのかは覚えていない。私たちはさらに山の方に移動して、保護者の迎えを待つことになった。何人かは帰っていった。私は親戚の助けで彼らの家に行くこととなった。日はまだ明るいものの傾き始めていた。

 親戚の家は中こそ見なかったものの、度重なる強い揺れで相当ぐちゃぐちゃになっていたらしい。私の家もそうかもな、さっきはもう津波に流されたと思っていたが実は残っているかもしれないな、祖母もその通り無事で。そして家族で大掃除するのだな、これから大変だなと考えていた。

 簡単に言えば、現実から目を逸らしていた。私が見たのは変わり果てた生まれ故郷の風景だった。もし家が残っていようとなかろうと、復旧までの道のりが遠いことは明らかだった。

 この日の夕食は親戚の家の食事を分けてもらった。親戚の方に「少なくてごめんね」と言われた。もらえるだけありがたいのに。他の人は晩御飯も食べれていないのかもしれないのに。

 親戚の方に「家族は大丈夫、みんな強いから」と数え切れないぐらいに励まされた。

 電気はなかった。ロウソクの周り以外は真っ暗だった。私は心を落ち着けようとして持っていた本を読んだ。暗くてよく読めなかった。ラジオはついていたかもしれないが、ほぼ何もすることがなかったので、ロウソクの節約もかねて早く寝ることになった。


②へ続きます。


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2020年3月11日 あとがき

 つらかった。嗚咽が出かかる状態で書きました。9年経ったといえ、吐き出すという行為にはかなりストレスがかかるようです。いやー大変だ。

 ここからは書ききれなかった話を。

(1) 9日の地震のついての本。1992年に出版された「学研まんが ひみつシリーズ新訂版 地震のひみつ」という本です。この本は当時の私が地球科学への興味を深める本でした。前震、津波、直下型地震、宏観異常現象、様々なことを学びました。もっとも、宏観異常現象については現在は都市伝説の感覚があります。

 今もしこの本を読むとするならば「学研まんが 新・ひみつシリーズ 地震のひみつ」「学研 まんがでよくわかるシリーズ・地域のひみつ編 地震・津波防災のひみつ」が恐らく似ています。後者は無料で読めます。リンクは参考文献へ。

(2) 10日の陸前高田市の天気を調べようとしたものの、気象庁には残っていませんでした。無念。

(3) 11日の夜、私は眠気に勝てず周りより比較的早めに寝たみたいです。こういう時って眠れないものかと思っていましたがそうでもないみたいです。(もしかして:泣き疲れ)

 早めに書き上げたい気持ちは山々なのですが、いかんせん長い時間書いていると心によろしくないので、調子がよい時を狙って書いていきます。よろしくお願いします。


2021年3月12日 あとがき

昨年書こうとして結局完結せず1年が経ってしまいました。10年という区切りもあることですし、今年は何とかして完結させたいと思います。

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参考文献

平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震 ~The 2011 off the Pacific coast of Tohoku Earthquake~(気象庁)

陸前高田市HP

地震・津波防災のひみつ ~東日本大震災を忘れない~(電子書籍ストア BookBeyond)


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