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上村元のひとりごと その451:たけくらべ

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 ある夏の昼下がり、僕は、とても暇でした。

 雑誌の取材のアポイントが、急にキャンセルになり、ぽっかりと、時間が空いた。

 同じこの部屋で、十年前の僕は、本を読もうと思い。

 同じこの本棚に向かって、目をつむり、手に触れた一冊を抜きました(どれにしようか、迷った時、よくやったものです)。

 樋口一葉の、文庫本でした。

 ふんやー。

 こうして、今、本棚の前に、ぼうっと立っていると、足元にまつわる、青緑色の影。

 僕が読書するのが大嫌いで、本棚に近づいただけで、警戒し、しきりにすねをかじってくる、愛猫ミントです。

 大丈夫。

 今は、昔じゃないから。

 微笑んで、抱き上げて、大きなおしりを、ぽんぽんと、手のひらで撫でます。

 同じその本が、目の前で、静かに背表紙をさらしています。

 その時、僕は、同様に、目をつむり、開いたページから読み始めました。

 「たけくらべ」。

 ふやーも。

 はいはい、わかってますよ。

 そろそろ本棚から離れろと、威嚇してくる愛猫にうなずき、しかし、なかなか立ち去れない。

 一葉の作品は、題名だけで既に、胸の辺りをひんやりさせます。

 決して、こんな文章は書けない。

 森鷗外の「舞姫」に対しても、似たようなことを思いましたが、何と言うか、もっと深い、どうしようもない、生まれの差。

 超える超えない以前に、別の生き物のような、視線の違いを感じます。

 日本文学史上、ここまで何もしない物書きが、他にいたでしょうか。

 みんな、何かしら、作品世界に介入している。

 都合のいい偶然を起こしたり、劇的な幕切れを用意したり。

 でも、一葉は、何もしない。

 引きこもり気質の信如に、一歩踏み出させるとか、手のつけられない乱暴者の長吉に、改心を促すとか、美登利が放った布切れを、誰かに拾わせるとか、予定調和的展開は、一切、なし。

 ただ、眺める。

 彼らが彼らのまま、大人になる、ならざるを得ない、その様を。

 何一つ、動くもののない、あきらめの湖のような場所から、じっと見つめる、澄んだ眼差し。

 誰がどれほど望もうと、得ることがかなわない、一葉だけに許された、この世の彼岸。

 暑い暑い午後でしたが、僕は、読み終えて、しんと涼しかった。

 何年経とうと、うだる夏の日には、「たけくらべ」を見つめて、心の温度を下げています。

 ぬんぎー。

 ごめんね、もうちょっとだけ。

 黄泉の国とはほど遠い、元気そのものの愛猫が、ヒステリックに繰り出すパンチを、よけきれず、マンガのようなアッパーカットを食らいながら、自問します。

 一葉は、本当に、何もしたくなかったんだろうか。

 そんなことはない。

 物書きだもの、信如に、長吉に、正太郎に、美登利に、生きたいように生きる契機を、与えてやりたかった。

 そうすることで、自分にも、生きたいように生きる自由を、もたらしたかった。

 どうして、あきらめたの?

 身体が弱くて、長生きできないと、知っていたから?

 違う。

 自由になったら、書けなくなるから。

 自分の筆力は、ひとえに、貧しさを克服するための労働と、その過程で見聞きした、市井の人々の体験談に拠っていることを、骨の髄まで、承知していたから。

 むんがぐわぎちゃー。

 …すみませんでした。

 とうとう、ぶち切れた愛猫に、平に陳謝して、急いで本棚に背を向けます。

 死ぬしかなかった。

 欲という名の、生きる力を、殺しきるより、他になかった。

 どこまでも、書くことに殉じた物書きの、捨て身の傑作を、どうぞ、この夏、ご一読下さい。それでは、また。

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