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上村元のひとりごと その87:BANANA DIARY

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 最寄りのイトーヨーカドーに入っている書店の、現代日本文学コーナーに、去年の暮れから、一冊の本がいて、半年以上、ずっと気にかけていました。

 書店に立ち寄るたびに、まだいるだろうか、と足を早め、まだいた、と確認してはほっとして、こんなに気になるんだったら、買えばいいじゃないか、と自分でも思いつつ、でも、いつだって、そこにいて欲しい。

 とはいえ、さすがにそろそろ店の方でも、在庫処分を検討しないとも限らない。知らない間に、いなくなってしまうのが、一番悲しいので、先ほど、昼ご飯を買いがてら、勇を奮って、手に取らせていただき、ミントのお許しを得て、黄色いエコバッグに、一緒に入れて帰って来ました。

 『BANANA DIARY』という題名で、日記だろうか、と思ったのですが、そうではなく、手帳でした。小説家の吉本ばなな氏が、若手アーティストとのコラボレーションで、お作りになったものらしい。

 太い帯に隠れて、よく見えませんでしたが、毛糸や、ビーズ、レースといった、女の人向けの素材が多様され、ポップで、カラフルな作品が表紙です。いい年をした男である僕にとっては、少し可愛らしすぎやしないか。その辺りが、半年も迷った理由の一つでした。

 もう一つ、こちらの方が大きな理由ですが、僕は、年上の女の人、という存在に対して、とてつもない畏怖の念を抱いており、たとえ、本の形を取っていても、気軽に接することができない。

 いわゆる、マザコンの変種なのでしょうが、お顔を直視することも難しく、ミントがもし、女の人で、年上だったら、と、考えただけで卒倒しそうになる。

 こんな風に、ベッドから、ころころ、ちりんちりん、と転がり落ちては、僕のあぐらの太腿に着地して、みににに、と笑い、てぃるるる、と喉を鳴らしながら、またベッドへ飛び乗って、ころころ、ちりんちりん、を繰り返す遊びに、到底、しらふでは付き合えないかもしれない。

 ころころ、ちりんちりん。ころころ、ちりんちりん。ころころ、ちりんちりん。ころころ、ちりんちりん。

 エンドレスで再生される同一音声に気が狂いそうになりつつ、満足するまで相手をして、するめを噛ませ、どうにか寝かしつけて、ため息をついて、食べ残しを口にする。まるで、小さい子供がいるみたい。ぼんやり疲れた頭で、手帳のページをめくります。

 ご著書からの抜粋でしょうか。あるいは、書き下ろされたものかもしれない。短い金言のようなものが、随所に散りばめられていて、一つ一つは、何ということはないのですが、まとめて読むと、するめのように、じわりとくる。

 とにかくデザインが素晴らしく、どこを開いても、退屈するということがありません。さすがは、世界でもトップクラスの小説家、文章というものを知り抜いています。これ以上、足しても、引いても、美しくない。そのラインが、彼女にはもちろん、携わる全てのスタッフに、完璧に見えている。仕事の最高峰。

 自分にとって、大事なものを、適切な方法で、うんと大事にすること。それが、吉本氏の言葉を貫く、生命線と見えました。

 しかし、そこまでなら、例えが卑近で恐縮ですが、僕にも言える。それだけではないはず。そこから先が、僕と彼女を分ける壁。

 なぜ、そこまで、大事なものにこだわるのか? 何が、彼女をして、時に命をかけてまで、大事なものを守り抜かせようとするのか? 

 不意に、頭の上、黒いものが広がりました。

 はっとして見上げると、ブラックマンタです。

 腹部に、顔に似た肉の溝があって、それが、ゆっくりと、僕をめがけて、開こうとして……。

 むいーん。ちりんちりん。

 膝の上で、ミントがぐずります。

 思わず、下を向いて、青緑色の毛皮を撫でてやり、また目を上げた時にはもう、ブラックマンタは、悠然と泳ぎ去っていました。

 雷に打たれたよう、とは、このことか。

 わかった。『海獣の子供』の軸が、やっと。そして、吉本氏が、命がけで大事なものを守れ、とおっしゃる意味も。

 物書きは、絵描きは、時に、神の領域に近いところまで足を踏み入れます。うっかり逆鱗に触れようものなら、二度と帰っては来られない。文章が書けない、絵が描けない。

 そうならないために、彼らは、いや、僕たちは、大事なものを、選ぶのです。錨として。命綱として。大事なものを持たない、物書きは、絵描きは、いずれ、表現の海原に、生き餌と消えていきます。

 僕にも、もう、それがある。ある以上、神の領域に、向かっていかなくてはならない。どれほど怖かろうとも。

 やがて、ミントは、ほわ、と目覚め、むしゃん、と立ち上がり、とてとてとてとて、ちりんちりん。お散歩です。お腹が空いたら、帰っておいで。今夜は、カレーだよ。それでは、また。

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