寒いもん
寒いもん
鳴沢 湧
落語の中の話。
「あんな男は駄目だ。口先ばかりで何にもできねー。お前のことだってどれだけ大事に思っているか分からねー」
さんざん罵倒してから、
「別れろ。どうして別れられねーんだ」
と詰め寄ると娘が、
「だってー。寒いもん」
男と女が分かれられない理由なんて、こんなつまらない理由なんですね―
人情の機微を見事に穿った言葉だと感心したものだが、近頃は笑って聞き流す事が出来ない。
先週妻が、コープデリEフレンズ注文書に注文を書き込みながら「あなたも覚えておいてくれなくっちゃ」と急き立てる。
妻が出来なくなった時のためにと言うが、そうなってからも食材を買って妻の代わりに私が炊事洗濯をしながら妻の介護をする事が出来るのか、と思うと戸惑うばかりだ。
また、私が要介護になる可能性の方がよほど高いし、要介護だけではなく死亡する可能性もある。その時にはコープの注文書どころではない。生活の実態を無くして、全く別の日常を送ることになる。
平成三十年に「家族信託の登記」をして、土地家屋の登記は子の名義にしてある。その先のことは子に任せておくしかないのに「コープの注文書」なんて暢気な話だ。いかにもうちの奥さんらしい。
考えたくない。このまま続けられる最後の時まで。
「だって、寒いもん」
二〇二一年六月四日
題「ターニングポイント」
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