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ツイッターは文学になり得るか?

約10年前、仕事絡みでツイッターを始めたのですが、個人的にはどうも馴染めず、すぐにやめてしまいました。当時はツイッターを使った企業キャンペーンが流行していたので、ツイッターを無視するわけにいかなかったのですが、一時期のブームが去るとホッした私はすぐにやめてしまったのです。

ツイッターに馴染めなかった理由は2つありました。

ひとつは「つぶやくことがない」。

そして、もうひとつの理由は、当時ツイッターをやっていた会社の部下たちの多くが、会社や上司や同僚の悪口やグチを頻繁につぶやいていたのを知ったからです。

ツイッターにはそんな負の印象しか抱けなかったので、仕事上やっておくべきだとは思ったのですが、一目散に立ち去りました。

そんなツイッターですが、2010年当時はキャンペーンでツイートをする仕事が大量に舞い込んできたため、私は会社で慌てて“ツイッター要員”を採用することにしました。

そこで一人、ツイッターなのに文学的な文章を書く子がいました。本業はポールダンサーというまだ二十歳そこそこの女の子でしたが、その彼女がつぶやく140字足らずの文章に文学を感じた私は、ツイッターキャンペーンの仕事をほぼすべて彼女一人に託しました。

同時に4つの案件を任せ、それぞれ別のキャラクターを立てて書いてもらっていたので、「どれが本当のアタシかわらなくなっちゃうよ〜」と苦笑していたこともありました。 

しかし、東日本大震災を機にツイッターの仕事もぱったりなくなり、ツイッター女子のお仕事もなくなり、彼女は「ブラジルにポールダンスの修行に行く」と言い残してあっさり退社してしまいました。

いまはどこでなにをしているのかな…。

さて、あれから10年。

そんなこんなで私はツイッターとはずっと無縁の生活をしてきたのですが、先月、10年ぶりに始めてみました。じつはコロナ禍の影響もあって、3月以来、テレビやネットニュースをよく見るようになりました。すると、どのメディアにも「ツイッターで炎上した」「ツイッターで話題になった」というニュースが毎日のように流れてくるではないですか。Yahoo!ニュースなんてひどいもので、記事の半分くらいはツイッターねたではないかという有様です。

ホリエモンがツイッターで「バカ、ボケ、カス」とわめきちらすのがなんでニュースなわけ?とうんざりしつつも、そのネタ元がほとんどスポーツ新聞だと知り、「まあ、いまはスポーツねたが拾えないから、ツイッターねたくらいしかないんだろうな」と同情を禁じえませんでした。

そして、社会勉強のために覗いてみるか、という軽い気持ちで新たにアカウントを取得することにしたのです。とはいえ、「つぶやくことがない」のはいまも変わらないので、気になる人だけをフォローして、自分からツイートもリツイートもしたことはありません。

最初は、よくニュースで話題になる人たちのフォローから始めたのですが、やはり以前からよく耳にしていた炎上をはじめ、罵倒や怒りや自画自賛やグチや誹謗中朝などネガティブなツイートの多さに嫌気がさして、すぐアンフォローしてしまいました。堀江貴文氏とその周辺のお仲間たちはその象徴ですね。

しかし、その中でキラリと光るツイートを見つけました。

作家の島田雅彦先生です。

ほとんどが安倍首相への怒りのツイートのオンパレードではあったのですが、さすが「文壇の貴公子」と呼ばれた作家です。芥川賞落選最多タイ記録を保持している無冠の天才作家です。

島田雅彦先生が放つツイートは、ウイットとエスプリとアイロニーに富み、ときにはライムも踏み、リズム感も申し分ありません。

じつは私は学生の頃から島田雅彦先生が大好きで、学生時代に読んだ『グレート・ギャツビー』(F.S.フィッツジェラルド)、『三四郎』(夏目漱石)、『僕は模造人間』(島田雅彦)は、私の青春三部作でした。そして、就職して編集者になってから、島田先生には取材を二度させてもらい、海外取材も一度一緒に行かせてもらいました。

「道中で世界を旅行をして一番美しいと思った光景はなんでしたか?」
「シベリア鉄道で見た氷ったうんちだなあ」

「もし作家になっていなかったら何をやってみたかったですか?」
「セクハラ課長かなあ」

と、そんな感じで、いつも本気か冗談かわからない真剣な顔で答える島田先生が私は大好きでした。

若かりし頃、私は「1週間オナニーをしないと世界が輝いてみえる」という島田先生のエッセイを読んで、輝く世界を見たくて1週間、いや2週間オナニーを自禁したこともあります。

それはさておき。

島田先生のツイートをちょっと紹介しましょう。

権力はアメとムチで支配するというが、安倍と無知に服従しても何もいいことないぞ。
見逃してくれよ、といわれて、いちいち見逃す検察を見過ごすな。
無法無能無策と3拍子揃った政府はほぼ無政府状態といっていいだろう。クールジャパンはアナーキージャパンだった。
「マスクは1世帯2枚配る。手を上げた奴に一律10万円やる。ほかに何が欲しいかいってみろ」「あなたの首をいただけますか。税金はかかりません。むしろ節約になります」
自分の金じゃないのに給付金を出し渋り、自己責任で非常事態を乗り切れという施政者は「ウイルスと不況を人口調節に利用しろ」と悪魔に入れ知恵されているようなもの。
なんで和牛券と聞かれたが、狂った人の気持ちはわからず、豚野郎といわれたくなかったのだろうと答えておいた。
まだ手に入らないトイレットペーパー、注文もないぼくの本。今必要なのはトイレットペーパー、あさって必要なのは正しいことしか書いてないぼくの本。
酒でも飲まなきゃやってられないと、コップ酒をあおったら、味がしない。匂いも感じない。これはもしやコロナの自覚症状かと心配になり、ハバネロを齧ってみたら、激辛だった。酒かと思ったそれは白湯で、ハバネロの後だったので甘く感じた。
昔は優秀な子に「末は博士か大臣か」と期待したものだが、今はバカな子を「末は詐欺師か大臣か」と心配する。
法を守る気もなく、嘘しかいわない男が「憲法を改正する」とほざいたところで誰が相手するか。嘘にも飽きただろうから、たまには本当のことをいうがよい。「日本がどうなろうと、知ったこっちゃない」と。
「災害対策は迅速、適切」などと官房長官がいうのを聞いて、「迅速、適切なのは隠蔽と責任逃れの方」と誰もが思っている。
昔は友達同士助け合うのはよいことだといわれておったのじゃが、安倍という男が友達同士でつるんで悪さばっかりするうちに仲間がどんどん増えて、遂には国が滅びたということじゃ。悪いことは悪いと教えてやるのが友達なんじゃぞ。日本昔ばなしより
自民党をぶっ壊すとか、NHKをぶっ壊すとか、憲法をぶっ壊すとか、主張する人は自分がぶっ壊れている

どれも「うまい!」と思わず、膝を叩いてしまいましたが、それにしても島田先生はなぜわざわざ時間を費やしてこんなツイートをしているのだろう? 一銭の稼ぎにもならないのに、なぜこんな無駄なことをしているのだろう? そんなことも同時に思わざるを得ませんでした。

そんなとき、島田先生のこんな本を見つけたのです。

『簡潔で心揺さぶる文章作法 SNS時代の自己表現レッスン』です。

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じつは島田先生の本を読むのはとても久しぶりでした。

私は青春時代には島田先生の作品にどっぷりハマっていたのですが、就職するといつの間にか純文学から遠ざかってしまっていました。しかし今回、島田先生のツイッターに触れて、改めて「ああ、これぞオレが大好きだったあの島田ワールドだ!」と思い出し、再び島田先生の作品を読み漁ることになったのです。

そうです。

島田先生はSNS時代の新しい文章を研究・実験・開発していたのです。

私はこの10年間、140字という文字数に制限されたツイッターは、直情的で脊髄反射的で刹那的で泡沫的なメディアであり、まさに夏目漱石の言う「智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」――そんな世界だとずっと思っていました。

しかし、島田先生はだからこそ、ツイッターは文学足り得ると言うのです。

島田先生は本書で、「日本の小説には2種類ある」と言います。芥川賞的小説と直木賞的小説です。芥川賞的小説は文学的で、極論すれば話は面白くなくても構わない。しかし、文章に新規性や革新性は求められる。直木賞的小説はエンターテインメント性に優れ、面白くなければ始まらない。しかし、文章に斬新さや新境地は求められない。 

そして、芥川賞的小説=文学は、どんなに短い文の中にも深い意味や含蓄があり、何か示唆していなければならないが、直木賞的小説は全体のストーリーが重要なので、短い一文が多少雑であっても、話が面白ければいい。そして、歴史に残るのは芥川賞的小説=文学的なものなのだ(島田先生は芥川賞の選考委員でもあります)。

と、超訳するとそんな主旨です。

そして、川端康成や谷崎潤一郎などの作品を紹介しながら、作家たちがいかにして一文一文に重みを与え、美しさを纏わせることに頭を振り絞っていたかについて解説しています。

ツイッターは短い一文だからこそ、そこに深い意味が込められるし、文学的でなければならない。直木賞的なエンターテインメントでは読む人の心に刻むことはできないと言うのです。

島田先生はSNS時代の新しい文章を研究・実験・開発するために、ツイッターで一銭にもならない短い一文を紡ぎ続けているのです。


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