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旅するzoomと、これからの旅は。

4月10日、zoomを使ってカンボジアの今の日々を旅する『旅するzoom』をやってみました。一言でいうと、やってみて、すごくよかった
そしてなんとなく、この『旅するzoom』の向こう側にこれからの未来への可能性が広がっていそうな予感がしています。
この感覚を参加してくれた人たちや仲間と分かち合って、こねこねして形をつくっていきたいから、まだふわっとしたままのイメージも含めて書いていこうと思います。

『旅するzoom』のはじまり

私たちNapura-worksはこれまでずっと”人が豊かに、ともに生きる未来”を一緒につくることを考えてきました。「豊か」の定義はきっとそれぞれあるけれど、私たちの感覚では心にシワが寄る瞬間が減って、伸びやかに遠くを見つめる時間がふえること。

そういう時間へのヒントが、古代の人たちが残してくれた遺跡にあり、今の人たちが培ってきたカンボジアの村のある人々に宿っているから「ここにきてください、ぜひ」と、旅を一緒につくることを仕事にしてきました。

2020年のはじめに、新型ウイルスさんが現れていろんな”境目”が閉ざされていくにつれ、”2020年の私たち”は地平線まで見えるほどきれいさっぱりオールクリアになった。本当に「きれいさっぱり」という言葉にぴったりなくらい2020年3月1日を最後に、そのあとに控えていたたくさんの新しい旅たちはすべて白紙に。

種まきと田おこしを終えて、いよいよ旅を通じて人が出会うというゆたかな生態系の姿が見えてきた頃だっただけに、これから出会うはずだった人たち、これから生まれるはずだった物語を思うと、切ない。
そして旅屋にとって旅ができないということは、旅で生まれる物語という心の栄養も、そこから得られるエネルギーとしての収入もなくなる。
二つの意味で、やせ細る。
近くを見ると、正直ツライ。

でも、同時に耳元で、
人生でこんなに「先の予定がない」のは、幼稚園に入る前以来じゃない?
というささやきが。

もしかしたら私たちは、生まれたて以来の広い広い無限の可能性の中にいるのかもしれない。
今目の前に広がる、オールクリアなこの大地は、まだ何にもないからこそ、なんでもつくれるのかもしれない。

その広い広い大地をぐるっと見回したり、仲間と一緒に歩き回ったり、座って語り合ったりしているうちに、

移動できないと、旅はできないのかな?
旅ってなんだろう?
これからの旅ってなんだろう?


という、問いが湧いてきた。
元に戻るのを待つ?いや、なんかそういうんじゃない。
もっと世界の骨格が、音を立てて変わっている気がする・・。

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そんなとき、たまたま村から参加したzoom会議の最後に、ある人が言った。
「この画面に映ってる風景を見せてもらってよかった。肩の力が、ちょっと抜けた気がする。知らない間に、やっぱり緊張してたんだね。」

この時、私たちが大切にしてきたものたちが、今、誰かの力になれるかもしれないと一筋の光が。

『旅するzoom』はここから生まれました。
何もない大地に落ちた一粒の種から、みずみずしい小さな緑の芽がぴょこんと出てくるように。

それから1週間。『旅するzoom』の肩越しに、これから先の、こうだったらいいなぁという未来の豊かな森の姿がちらっと見えてきた。その森はたぶん、旅という種を超えて、これからの暮らし方、生き方、ひとや自然、周辺環境との関係性のつくり方にも根っこが深くつながっていく気がしています。

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やってみて、わかった”今、力になれること”

1)とにかくちょっと元気になってもらえる!

「本当に1時間、カンボジアを旅した気持ちになった!」
「久しぶりにおっきな空をみて、呼吸が深くなった感じがする」
「画面に出てくる地元の人とのやりとりが、楽しかった!」

私たちがいるコンポントムは、今日までの新年の間もみんな気をつけつつ、恒例の正月行事など我慢するところはしつつも、穏やかに暮らしています。

旅するzoomの画面に突如出てくるウォーキングしているお父さんや、市場のお母さんたちとの予定調和じゃない会話が楽しかったり、この街の人が毎日見ている川や空たちの大きさが、誰かの心にスペースを作ってくれたり。

”誰かにとっての日常”にちょっとお邪魔してみたら、なんだか元気がもらえる。Napuraの旅の肝である「旅は、旅する人と迎える人でつくるもの」がこの方法なら実現出来る。双方が顔を見て、それぞれの声を聞いて、互いに話せる少人数だからこそ、「視聴者」じゃなく「旅する人」なってもらえる。

2)思いがけず、”これからの話”が出たりする(かも)

仕事とも、家族の中とも違う人たちと、偶然旅を介して、人生のいっときに袖すりあう仲間になる。お互い知らないんだけど、それぞれを知っている人がそこにいて、同じ旅の場面を経験していくと、なんだかちょっとその時だけの仲間が生まれる。
そして旅の中で出会う、違う社会で生きる人たちとの対話の中で、日頃は”目の前のこと”の奥で出番を待っている、本当に大事な私たちの”これからについて”が顔を出すこともあったり。

3)今だから、みんなで旅をしてもらえる。

新型ウイルスさんが来る前の世界で、現代人にとって旅を最も阻むものは、”旅費コスト”(実際に旅は高額商品)よりも、みんなの予定を合わせるという”時間コスト”とそれに伴う”メンタルコスト”だったと思う。

例えば、
「部長にお盆休んでいいですかって聞くのやだなー。絶対いい顔しないし。でも、絶対海外行きたいって、サイトを見まくっている奥さんに休めないって言った時の反応も想像すると怖い・・。は〜、どうしよ」とかね。

今、世界経済の回転速度がゆるやかになり、さらに外出の範囲に限りがある。働き方によって濃淡はあれど、今までと比べて”時間を調整することにかかるコスト”の感覚は変わってきている。

同時に、せっかく時間ができたのに会いたくても、会いにいけない。
おじいちゃんおばあちゃんの家に遊びにいけない。という特殊な制約の中で、zoomでなら一緒に旅ができる。

今だから、
あの時一緒に旅をした仲間で、もう一度、会いたい。とか
せっかく実家に帰っているから、お母さんと一緒に旅にとか。
忙しくて今までなかなかいけなかったから、家族で。とか
毎年旅行に行っているあの家族と!とかとか。

こういうときに、オーダーメイドの旅をするように『旅するzoom』を使ってもらえたらなと思う。今週土曜日に友人からの依頼を受けて、”大学時代の仲間と”版、第一回をやります。

例えば晩ごはんのあと、家族でリビンクでテレビの代わりに、旅するzoomでカンボジアの夕焼け空の下に行く、とか。足腰が弱くなって旅に出られなくなっちゃったおばあちゃんを、旅するzoomさせてあげたい、とか。最近家族に元気がないから、サプライズ!とか。

旅行をするというより、誰かに大事だよという気持ちや元気を届けるツールとして使ってもらえたら、さらにうれしい。

やってみてわかった、”これからの力になれる”こと

旅ってなんだろう?
と改めて思ったので、広辞苑で調べてみた。

住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて「たび」と言った。

そう、家から出たら全て旅
どこかにいく、なにかをみる、だけが旅じゃない。
goalのとこだけ、終着地点だけ、が旅じゃない。
むしろその間こそが、もっとずっと旅そのもの。
しかもここでいう”家”もいろんな可能性があるはず。

例えば
「心」が「身体」という家から出て小説の世界を旅する。
農家さんの野菜が「育った土」という家を出て誰かに届くのも野菜の旅。
「親の手」という家を離れるはじめてのおつかいも旅だし、画家の絵の具がチューブという家を出たり、大豆がお醤油になる過程も、そのお醤油が作り手という実家を出て、スーパーを経て、選ばれたご家庭に働きに行くのも、きっと大いなるお醤油の旅だ。

私たちが集まって生きている暮らしは、旅に溢れている
生きているこの時間そのものが、一人一人の旅であり、人間という生き物たちの壮大な旅。たぶん、私たちはこの旅と、もっと豊かに付き合える。

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たぶん、旅そのものはずっと変わっていないけれど、人々が旅をどう見るか、は時代に合わせて変わってきた。
どんな窓から世界を見るかで、見える世界は姿を変える。
旅の器は、きっと、もっと、でっかい。

「人が旅をしなくてよくなる」の対岸は?

新型ウイルスさんが来る前、オンライン×旅といえばVRが花形だった。人は旅をしなくてよくなる、という人もいた。
そして、ウイルス後の世界について語るとき、旅産業が元に戻るには時間がかかるとか、旅は一部の裕福な人の贅沢になる?とも言われている。

でもそんなときだからこそ、実際の旅の体験の廉価版、省エネ版としてのオンライン旅ではなく、旅をつくる人、旅をする人、旅を通して出会う人たちの関係性をゆたかに耕して、生態系をかたち創るための”入り口”としてのオンライン旅には可能性があると思う、とても。

2020年の春から夏にかけては、その可能性を仲間たちと探求していく時間にしたい。そして、その過程をわかちあいながら、”これからの森”を育てていきたい。

気球に乗ったお金持ちたちの旅も、「まじょーこーさーん」と叫びながらチャリで爆走したトンボの旅も、同じく旅だということに目を向ければ、私たちはきっと、旅を、もっと自由にしてあげられる。


2020.4.15



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