小川哲『嘘と正典』の感想

『嘘と正典』の存在を知ったのは、某ラジオ番組の某プレスペシャル放送で単行本の発売情報を耳にしたのがきっかけだった。

放送を聞いてから少し経ち、その本が直木賞候補になったと知って、これを機に読んでみようと書店で手に取った。

それが昨年末の話だ。
あれからもう1年近くが経とうとしている。時が過ぎるのは本当にあっという間だ。

さて、この本には6つの短篇が収録されている。私は、「魔術師」から表題作の「嘘と正典」まで収録されている順番通りに読んでいった。以下、各短篇の感想を簡潔にまとめた。

①「魔術師」…とにかく結末が気になりながら読み進めていったところ結末自体が非常に気になるというものだったので驚いた。読者である私が見事にイリュージョンにかかってしまったような読後感。まず、この話で心が掴まれ、「小川哲って某ラジオ番組のパーソナリティの人というイメージだったけど面白い話を書く作家なんだなあ」と思った。

②「ひとすじの光」…初めて競馬にまつわる小説を読んだ。6つの短篇の中で個人的に一番好きなのがこの話だ。血筋をたどるように話が進み、読後とてもあたたかい気持ちになれる。日曜日の朝に少し早起きをして、コーヒーを飲みながらこの物語を読むときっとよい1日を過ごせるだろう。

③「時の扉」…読みながら頭の中が沸騰していた。パラドクス?時間の概念?といちいち小難しいのになぜかクセになる話だ。変えたい過去がある人は、これを読んだら「こんな事態になるならやっぱり今のままでいい!」となってしまうはずだ。“王”が誰なのか、ということに気がつくとさらに面白くなる。

④「ムジカ・ムンダーナ」…恋愛小説ではないがロマンチック度ナンバーワン、そして読んだらなぜか旅に出たくなる。私は宇宙について考えることも音楽を聴くことも結構好きなのだが、それらを関連付けて考えたことがなかったからこれを読んで知見の世界が広がった。家族写真のくだりはどうしても笑ってしまう。こんな家族写真はいやだ大賞に決定。

⑤「最後の不良」…なんだこの主人公?抱腹絶倒のコメディ?と思いきや違った。でも面白かった。桃山と同じように私もカルチャーを愛している勢だが、仮に表面的に流行が消滅したら、いま厄介ななんとかハラスメントたる類いのものもなくなり、それはそれで生きやすい世の中になるのかもしれないなと思った。流行って一体なんなのだろう。

⑥「嘘と正典」…歴史を知れてSFも堪能できる二刀流。登場人物がみんなかっこいいし、スリリングで、本を読んでいるのに映画を観ているかのようだった。そして、ペトロフの運命に泣いてしまった。

時々、仕事上での水掛け論や、家族や友人との会話での「そんなことあったっけ?」という記憶の食い違いなど、共有していたはずの事実が事実でなくなってしまう事態が発生する。自分の知らないところで小さな改変が起こり、過去がいつのまにか書き換わっている。100パーセント自分の勘違いではないとも言い切れないし、そういう状況に直面したときにはなんともいえない不安を感じるが、「正典の守護者」がどこかにいて、きっといつか正しさを証明してくれるにちがいないと、そんな気持ちになった。また、この小説自体も、作者である小川哲やその発行に携わる人がいなければ誕生しなかったし、私という読者がいなければこうした感想もまた存在しなかったのだと思うととても不思議な気持ちになる。

『嘘と正典』を読み終えて、まず、世界の歴史についてもっと知りたくなった。ネット検索である程度の情報を得られる時代だが、純粋に「もっと色んな本が読みたい。色んなことを知りたい」という衝動に駆られ、以前は進んで読んでこなかった世界史や哲学書に手を出し始めた。こんな風に、この本には知的好奇心をくすぐる効果もあるのだ。

作者から物語を通して読者へ流れる血筋は、やがて社会を循環させていく。『嘘と正典』は、そんな希望を予感させる小説だ。


最後に小川先生へ。これからも先生の作品を楽しみに待っています!小川ファンより。


#読書の秋2020

#嘘と正典

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