憂鬱だけど幸せ
映画みたいなシーンって日々に散りばめられているよなと思う。
入道雲の輪郭。真っ青な空から浮き出てきて、輪郭だけ太陽の光を帯びていて、眺めていると吸い込まれそうになる。蝉の鳴き声。けたたましいそれが、ふとした瞬間に消えてぽつんと世界にひとりになる。雨上がりの土の匂い。干からびたところに潤いを与えられた喜びを感じる。逃げ水。小さい頃不思議でたまらなくてずっと追いかけていた夏の遊び相手。
こういうものたちを感じる時は決まって、口角が上がると同時に泣きそうになる。なんという感情なのかよく分からないけど、「切ない」に近いのかなあと思って、「切ない」とスマホに打ち込んで、意味を調べてみた。
なんだかちょっとだけ違うなあと思いながら、切ないという単語で色々検索してみた。いろんな解釈があって、一部「いや”切なさ”はそんなんじゃないと思う」と謎の抗議を心の中で繰り広げていた先に出会った表現が素敵すぎだった。
山田詠美さんのあとがきを引用して書かれた記事なのだが、たしかにとすごい頷ける。切なさは五粒以内の涙だ。たしかに。
一つひとつの情景に泣きそうになることも、時にすーっと涙が伝うこともある。ひとりだけこの世界に取り残されたような気持ちになるのもそれが正体なのか。明確なシーンを思い出していないだけで、何歳かだった私も似た景色を見て、似た体験をしていろんな感情を積み重ねてきた、それの結晶なのか。
日々、心にぎゅんとくるそれ、涙腺にくるそれ、を味わうのが好きだったりする。ただ、そんな自分をのろまだなと嫌になることも多くある。どこかに向かって颯爽と歩いている人とすれ違ったり、早口で何かを楽しそうに話す人を横目で見たりして、みんなは進んでいるのに、その時間から秒速5ミリくらい後ろに引っ張られるような、取り残されている感覚になる時がよくあるのだ。
でも「ソフィスティケィティッドされた内側を持つ大人だけが所有している」「大人の極上の消費」なのだ。味わっておこう。この憂鬱な幸せみたいなこの感覚は大事にしておこうと、今日の朝に誓う。
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