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ヴァーチャルの先にありそうなもの

最近、ヴァーチャルの分野が、来そうだなと思ってる。来そう、というか世の中の構造を大きく変えそうな予感。

建築業界でも、建築のうち「情報」を特化して扱う建築情報学会が発足し、「ヴァーチャルで建つ建築」ということがウェビナーで盛んに議論されているのを目の当たりにし、世の中がもうそこまで来ているのかと感じた。

世の中の多くものがヴァーチャルで成立する、ということは、昨今の人との接触が制限されたり、移動などにかかるエネルギー消費量を削減しなくてはいけない地球規模の課題を考えると、非常にプラスの部分が多いように思う。そうなるとヴァーチャルが台頭してくるのも自然な流れだとは思うのだが、その時に、今までリアルを舞台として人生を送り、仕事をしてきた僕に、一体何ができるのだろうと、少し真剣に考えてみた。

A. ヴァーチャル VS リアル という構図の中で考える

ヴァーチャルとリアルは必ずしも対立するものではないし、協調していくものだと思う一方、「ヴァーチャルでいいじゃん」みたいな世の中の流れは容易に想像できる。その時に「リアル」にしか出来ないことは何だろう、と考えることは良い頭の体操になるだろう。

今の技術だとヴァーチャルで実現できるのは「視覚・聴覚」情報のみで、それ以外の五感の再現度は発展途上と言えるだろう。このような話をすると二つ思い出すが、一つはディズニーシーの「ソアリン」である。よく出来たVR体験だと思うが、匂いや風などの再現度はまだまだである。一方、SF小説「三体」で出てくるゲーム世界では、全身スーツを纏ってゲームをすることで、温熱環境や触れる感覚などの殆ど全ての感覚が再現される。そうなると、五感をヴァーチャルで実現できるようになる日も、そう遠くないような気がしている。

ヴァーチャルにあると、存在しなくなるものは「都合の悪いもの」であると僕は思う。人にとって都合の悪いものは、存在する必要は無い。あくまで都合のよく平和でハッピーな世界がヴァーチャルでは展開されるだろう。

そうすると、リアルにしか無いものは「都合の悪いもの」なのかもしれない。そう考えると、ニンテンドーSwitchの「ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド 」を思い出す。あのゲームはオープンワールドで、いわば完成度の高いヴァーチャル空間と言えるが、決して都合が良い世界とは言えないのである。武器はすぐ壊れるし、食材も調理しないと食べられないし、雷に打たれて死ぬし、暑さ寒さで体力が奪われて死ぬし、ちょっと高いところから飛び降りただけで死ぬ。でも、その都合の悪さは、現実世界で十分で、ゲームをしている僕にはちょっと苦痛であった。だから、ヴァーチャルでは、「都合の悪いもの」がなくなる傾向になると予想している。

結論が、「リアルにしか無いものは、都合の悪いもの」だとする。もう少しそれを拡大解釈すると「自然の摂理」あるいは「物理法則」のようなものだと思う。

僕は、そのようなある種都合の悪いものを、リアルであえて体験することが、今後、一種の贅沢というか、貴重性を持ってくると考えている。風が強くて不快だったり、雨が邪魔だったり、日差しが暑すぎたり、吹雪が冷たかったりする。それは全て、人間がハッピーに生きるには要らないものかもしれない。でも、それを体験することが、とてもラグジュアリーになる日が来ると思う。今でも、敢えて滝に打たれたり、サウナに入ったり、そんな体験がもっと、もっと、貴重になると思うのだ。

B. ヴァーチャル世界が全てを包み込んだとして

リアルな世界が存在しなくなる、ヴァーチャルな世界が全てになった時、僕たちは何を大事にすれば良いか。正直ヴァーチャルになれば、見た目はどうにでもカスタムできるだろう。言葉の壁もなくなるだろう。動かなくて済むので、身体的な健康も必要なくなるだろう。頭の能力も、コンピュータに頼ることで全く必要なくなるかもしれない。その時に、自分たちの価値はどこに生まれるんだろう。

これはまだ答えが出ていないのだが、ある種の「不器用さ・不合理さ」が価値になると思う。コンピュータで何でも器用にできて合理的に考えられるからこそ、人の不器用さ・不合理さこそが、価値になる。そして、見た目も完璧にできるからこそ、人の醜さが、価値になる。

何れにしても、「都合の悪いもの」とか「不器用さ・不合理さ」みたいなものを、これからも愛し続けて生きていきたいと思う。



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