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【日記】期待と感情「天気に本気で怒る人はいないだろう、たぶん、、、」

先日大学院の授業でずっと自宅で受講していたのですが、子ども達はお構いなしに僕のいる部屋に入ってきます。

僕の書斎は、実は子ども部屋にあるので致し方ないのですが、、、。

小学生の上の子達は状況を理解しているので入ってきませんが、幼児はなんで黙ってPCに向かってずっと僕が座ってるのか理解はできません。

授業を受けている僕の後で、子ども同士で喧嘩して泣き叫んだり、遊びで大声を出しているわけです。こちらとしては流石に「イラッ!」とするわけです。「ウルサイ!」と癇癪を起こしたくなる気持ちが湧いてくるのです。

そしてふと思うのです。

雨が降ってきて「イラッ!」とするかな?と。

子どもは「自然」そのものですね。悲しければ泣きます。悔しくても泣きます。びっくりして泣きます。嬉しいと飛び跳ねます。楽しいと叫びます。感情そのものですね。

大人になるとその感情を制御することに慣れるので、子どもといると驚かされますが、本来ありのままの感情という意味では、子どもは完全に自然、天然です。

天気も当然「自然現象」です。では、「天気」と「子ども」何か違うのでしょうか?

どうして僕は天気に対しては感情は動かずに、子どもには感情が動いたのでしょうか?

天気に、「イラッ」としたり、怒る人はいないですよね。雨が降って残念だなと思っても、怒りはしないでそう。怒ったところで何も変わりませんし、放っておけば止みます。

おそらくそこには、天気は仕方のないこと、自分ではどうにもならない対象として、自分で「制御」しようと思っていないのでしょう。「あぁ雨か、、、。」くらいなのです。

でも子どもに対しては、天気と同じ自然現象なのですが、自分が怒鳴れば制御できるのではないか、または強制的に部屋から追い出せばできなくはないという、なんとかなる対象として捉えているから、そこに、葛藤が生まれるのでしょう。

ということは子どもも天気と同じようにどうにもならない自然現象として捉えれば、そこに「イラッ!」とする感情は生まれないはずです。

この制御可能かどうかというのは、大いに「期待」と関係していると思います。制御できないものに期待はしません。期待しても何も変わらないからです。でも、制御できるものには期待が生まれます。つまり制御できるという期待が感情の裏にあるのです。だから、制御できないとその期待が裏切られた形になり、「怒り」という感情になるのです。

それこそ、子どもは何にでも怒ります。天気にも、石にも、壁にも、、、。それはなんでも自分の思いで制御できる対象だと期待しているのでしょう。親に対しても甘えればお願いを聞いてもらえると期待しています。まぁ赤子の時には確かになんでも親は施しましたからね。その癖を徐々に理性的な思考で、物事を客観的に把握していくことが、社会性を持った人間の成長なのでしょう。

そういう意味では、僕が「イラッ!」としたのはまだ、成長が足りないということになります。ちなみに一人目の時は幼児であっても怒鳴っていました。今は四人目なので、諦めました。子どもが自然での現象であることをやっと認識できました。

怒鳴ったり強制的に排除しても、結果それに驚いて泣き叫びもっと酷くなるのがオチです。優しく「静かにぃ」と伝え、放っておけば飽きてそのうち部屋からいなくなります。まさに自然現象なのです。

こういうのは、正直親も経験の中から失敗して学んでいます。歳をとったからといって人はそう簡単に人格者にはなれません。子どもに成長にさせてもらっています。

ちょっとリアルすぎる内容でしたが、怒りを制御できた成長中の親としてシェアしたいなと思いました。

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