神の陳腐化が止まらない ぼくが最初に違和感を持ったのはアイドルのAKBだろうか。主要メンバー7人に「神セブン」などと呼び出したあたりだ。記憶頼みで曖昧だが時代は2012年頃だろうか。 その後、テレビのバラエティやラジオなどで、これまで以上に秀逸、面白かった放送回を「神回」などと呼び始めた。 この辺りで「神」の字の持つ神秘性、希少性は失われ、完全に身近に使用できるものとされてしまったのである。 「神は細部に宿る」として日本人は色々な所に神を見てきたはずだ。 ご来光を押
ぼくは伊集院光のラジオのファンだ。 深夜の馬鹿力は特定の週を除いて欠かさず聴いている。 これは、先日別のテキストを書いていたらアウトプットが楽しくなってしまい、勢い余って書くものである。 大絶賛褒めまくり、という文章では無い。本人が知ったら傷付くこともあるかも知れないから、関係者の方は見ることをオススメしない。絶対に。 鍵をかけるような意味での有料化であり、「それなら書かなきゃ宜しい」という指摘は妥当であるが、書きたいものは書きたいという気分だから仕方ない。また、テレビ
オリンピックが終わって、パラリンピックが始まった。 スポーツに全く興味のないぼくにも漏れ伝わってきたことがある。 「ブラインドサッカーが凄い」ということ。 鈴の入ったボールを追いかけるらしい。視力に難がある故のハードなぶつかりもあり、歯を折ったりするくらいの激しさがあるということ。 鈴の音を追い掛ける選手の応援の為に、点が入るまでは観客は固唾を飲んで黙していなければいけないこと。 一方、代わりに点が入ったときの大声援の解放感の凄いこと。 普段の関わり合いの無い人々の活躍