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「私の非・履歴書」(後編)

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MBA留学、そしてベイエリア残留

この銀行で5年働いたところで、縁あってアメリカにMBA留学する機会を得ました。今となってはなんと言われても仕方ありませんが、その時点では「アメリカに残る」ことは考えておらず卒業後は同じ職場に戻る予定で「その後また海外に出るための基盤づくり」と考えていました。

ここで志望校を決める際に決め手となったのが前述の「銀行はIT産業」発言です。お恥ずかしい話ですが、その発言に触発され単純に「ITを経営に活かす学びができそうな学校にしよう」と思い「だったらベイエリアの大学院だな」[16]と「勘違い」して出願した結果大変運良くスタンフォード大学のMBAプログラムに合格しました。

MBAプログラムで過ごした2年間の内容についてはその後MBA教育の意義や内容が大幅に変わっているのでもはや「古臭い」話となるのでここでは「卒業後アメリカに残る決断をした経緯」と共に省略します。

乱暴に要約すれば、当初期待していた「学びの目的」とは方向性の異なる「経営」そして「起業」の世界に惹かれ、教授陣以上に多くのことを教えてくれた同級生たちの後押しを受け、思い切って卒業後はベイエリアに残ったことになります。[17]

この中ではもっとも短い2年間のフェーズでしたが、このフェーズでもまた後に繋がるものを得ました。ここでは「思い」に属するものと「力(スキル)」に属するものが混じっています。

①根拠の無い「ベイエリアで経営のプロとしてやっていける」自信。
②この時点では憧れ半分の「いつかはスタートアップの経営」という目標。
③教授陣、授業のゲストで来た起業家・経営者、そして同級生から学んだ経営における人材、組織そしてリーダーシップに関する知見。
④限られた時間で情報を収集・分析し、説得力あるアウトプットを出す力。

「スタンフォード卒」のブランド、同窓生の「ネットワーク」は?と思われるかもしれませんが、それらは精神的サポートとなる「友情」を超えたところでは仕事で実績をあげて初めて生きてくるものだと悟ったので、ここでは次点程度とします。実際、卒業後働く中でお互いの良い点も悪い点も知った上で築いた信頼関係の方が重要でした。

経営コンサルタント

私がMBAプログラムを卒業したのは第一次インターネットブームの真っ最中でした。ベイエリアが「半導体」から「ソフトウェア」そして「インターネット」に一気にシフトし始めた頃です。

ここで即IT業界に入っていたらその後の人生は全く違っていたはずですが、多少ITを齧っていても[18]渡米前の前職が「日本の銀行」でアメリカでの就労経験なしだと敷居は高く、ここでまた「回り道」をしました。入ったのは某有名戦略コンサルティングファームのパートナーが独立して創業した中規模の戦略コンサルティング会社です。日本にオフィスもなく、日本の顧客もいませんでした。

そこに決めた理由は面接時にフランス人の創業者から、「自分たちは有名では無いが欧米のトップ企業(フォーチュン100レベル)の顧客と仕事ができる」と売り込まれたことです。先方も「先々の日本展開への布石」として採用された気もしますが、こちらも「アメリカで働くための足場」と考えていたので「お互い様」です。

実際そこではベイエリアでの仕事こそ無かったものの、米国のあちこちに出向いてIT、消費財、金融、エンタテインメント業界の有名企業の経営トップ相手[19]に仕事をする機会、プロジェクトチームのリーダーを務める機会に恵まれました。

そうやって責任が重くなる(=面白くなる)一方でその会社の創業者「ワンマン体質」に起因する様々な問題に辟易し始めた頃、スタンフォード時代の知人から同大学の経営意思決定理論の教授が中心となって創業したコンサルティングファームに誘われました。

引っ張られたのは「日本の大企業の仕事が取れたけど日本語で仕事できる人材が足りないから」でしたが、それは承知の上で引っ張ってくれた知人[20]を始めとする「人」に惹かれ「一度ぐらい日本の大きな仕事するのも面白いかな」と思い転職を決めました。

この2社目のコンサルティングファーム、この「日本企業プロジェクト」を足がかりに日本でのビジネスを拡大しようとしていましたが、当面はオフィス開設の見込みはなく、頻繁な出張はあっても「米国ベース」の仕事だったので多少先行き不透明感を感じながらも最初の日本企業を皮切りに自動車、ITハードウエア、バイオテクノロジー業界の顧客と仕事をしました。

同社のコンサルティングは「不確実性の下での戦略意思決定」を謳い独自の定量的手法を駆使したものした。中途採用の自分は当初それを学ぶのに苦労しましたが、前職で得た同社に不足する「伝統的」戦略コンサルティングのノウハウを活かすなどして自分独自の貢献ができるようになりました。

最終的にはその会社は9.11後の景気悪化などの影響で業績が低下する中で「日本市場へのコミット」圧力に反抗した自分の居場所がなくなり解雇に至りました。とはいえ同社での出会いがきっかけで「いずれはスタートアップ」の希望が叶ったのでトータルでは良い経験でした。[21]

経営コンサルタント時代には主に以下の「力」を身に付けました。

①様々な産業でその業界の「プロ」である顧客の信頼を「外部視点」から得るために必要な学習・コミュニケーション能力。
②経営課題を不確実性込みで定量化し、アクションにつながる説得力ある洞察を引き出す分析力。[22]
③業界の枠を超えて応用可能な経営上の横断的知見。[23]

この三つを得て「アメリカで経営者として働く」ため、そして現在の「芸風」の基本的スキルが出来上がったと思います。まだ欠けていたのは「スタートアップ経験」ですがそれは次のステージで「どっぷり」獲得しました。

スタートアップ経営修行

そんな経緯でコンサルタントを卒業しましたが、面白いものでほぼ同時に、そこで親しくしていた同僚が創業して間もない「医療市場向けオンライン市場調査」のスタートアップから声がかかりました。

このスタートアップ、社員はまだ10人前後でした。そこに最初はパートタイム、後に正社員として他企業とのパートナーシップを開拓・推進する事業開発担当として雇われました。

これまた声がかかったのは「日本のIT大企業との合弁を見据えたパイロットプロジェクト」について相談されたのがきっかけで、自分もそこでまた「どんなもんかやってみよう」と乗った次第です。[24]

ところがこのプロジェクト、蓋を開けてみれば創業間もないスタートアップと大企業の間では目指すものも違い、互恵的な関係が成立しないことが早々に明らかになりました。それに伴い自分の仕事も「推進」から「解消」の交渉役に切り替わりました。

この交渉が成立し、プロジェクトを無事解消できたのでお役御免かな、と思っていたところ幸いにもCEO(=元同僚)から「もっと一緒にやろう」と言われ上記事業開発のポジションを作ってもらい、正社員になりました。

入社後は会社の成長に伴い「事業開発」はCEO直属で特別プロジェクトを行う「特命担当」に拡張され、エンジニアリングも含めた社内各部署をまとめつつ火の粉のように降りかかる様々な課題に取り組むようになりました。そして同社の業績が安定成長軌道に乗り「とりあえず自分にできることは全てやった」と思ったところでで円満退社しました。[25]

その後1年弱フリーランスでコンサルティングをしたり、知人の紹介でスタートアップの雇われCEOの声がかかりしばらく関わったものの自分がCEOとしての経営責任を負いたいと思えるほど会社に惚れ込むことができなかったため辞退しました。

そして「いよいよ」ビジネススクールの同級生に引っ張られて前回の記事における「X社」に4人目の社員として入りました。

X社での体験はここでは繰り返しません。スタートアップに起きうる「経営危機」をほぼ全て体験する中で、経営陣の下っ端だった自分がCEOと二人三脚で仕事をし会社を「回す」責任ある立場に就き、会社を立て直し再起動する中で大きく成長できた、と総括させてください。[26]

数々の危機を乗り越え、製品を完成させ大型資金調達に成功したところでまた「自分が活躍できる段階を過ぎ」、バーンアウト気味となったところでちょうど会社を南カリフォルニアに移転することが決まったので潮時だなと思って退職しました。

このスタートアップ2社で得た「広く深い」経験の中から得たのは以下に挙げる5つの「実績」となります。

①スタートアップの立ち上げから経営に参加し成果をあげた、言える自信。②スタートアップに起きうるありとあらゆる経営危機を乗り越えてきたことによるタフネス(=図々しさ)。
③危機にあたり社内の信頼関係を復活させ、協力して解決した体験。
④逼迫した状況の中で獲得した財務、法務、労務、経営計画、そして資金調達といった様々なスキルを統合して問題解決に臨んだ経験。
⑤CEOと二人三脚でVCを含む取締役会・株主と相手に仕事をした実績。

この実績を「日本と無関係な仕事」で獲得し、磨いたことにより自分が望んでいた形で「ベイエリアのスタートアップ世界の一員」になった自覚(=自己満足)も得、自分の「芸風」が固まりました。

起業家の相棒として

ここからは「現在進行形」の話となりますので手短に。 X社を退職後にも無論様々な経験をしていますが、ハイライトとなるのは以下のものです。

エンジニア出身のアメリカ人弁護士と組んでリーガルテックでの起業を試み、有名アクセレレーターの面接まで行き不合格になった体験。[27]

日本の大手製造業のサンフランシスコ拠点のオープンイノベーション活動に参画し、様々なスタートアップとの出会いを通じ自分の「芸風」を追求することを可能にする「人の流れ」を作り出したこと。

ベイエリアでの設立を支援した日本人起業家によるスタートアップがVCから資金調達したことに伴い取締役に就任した経験。

こういった経験を通じ、現在は冒頭に書いた通り「世界の起業家の相棒」を自認し己の「芸風」を発揮しつつ磨いているのが今の自分です。

まとめとお礼

以上駆け足気味ではありましたが、私の今日に至る経験とその中でどのような「思い」「力」「実績」を形成してきたかを書かせていただきました。

これをお読みいただき冒頭の「こいつはどんな資格で語っているんだ」という疑問が解消されれば幸いです。また「こんな生き方もあるのか」と楽しんでいただいたり呆れていただいても書いた甲斐があったと思います。

ご感想、そして「この点についてもっと読んでみたい」とのご要望がありましたらコメントなどしていただければ励みになります。

最後になりましたが、長文にお付き合いいただきありがとうございました!

注釈

[16]子供の時東海岸にいたので今度は西海岸、と安直に考えてもいました。

[17]はしょり過ぎなのは十分承知ですが「恥ずかしい昔話」なので。

[18] 学部時代にFORTRAN学んだり、根がオタクなもので結構知識はありましたが「売り」にできるようなものではありませんでした。

[19]廊下で顧客のCEOと出くわし「こないだのプレゼンのここもうちょっと説明してくれ」と言われオフィスに招かれたこともありました。

[20]後に最も親しい友人となり、今も会社や業界の枠を超えて協働することがあります。

[21]円満退社とは言えませんが当時の同僚とは良好な関係が続いています。

[22]エクセルを駆使し、大概のビジネスはモデル化できるようになりましたが、それだけではありません。

[23]これはうまく説明できない「感覚的」なものですので別の機会に。

[24]  こうして振り返ると今の「芸風」はともかく日本とは「微妙な距離感」で働いてきたと思います。

[25]   このスタートアップは退職後6年ほど経過したところで買収され、オプションを行使していた自分も一応その恩恵を被りました。

[26]こればかりは今回「過去に書いたものをお読みください」とします。

[27]Yで始まるアクセレレーターです。この案件は相棒側の諸事情により断念しましたが数年後に同じアクセレレーターに似たような会社が入った、とオチがつきます。面白いもので、そこの卒業生との縁が後に生まれました。

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