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「私の非・履歴書」(前編)

ここまで数回書いたものをお読みになって

「こいつは一体どんな資格でものを語っているのか?」

と疑問に思われた方もいるかと思います。

過去に書いたもの読んでください」

と済ましてしまいたい誘惑にも駆られるのですが、初めて私の書き物に触れる方も多い中流石にそれは不親切だと思い、またこれまで語ってきた経験をでも違った視点で整理したら自分とっても、また再度読む人にとっても新たな発見があるのではないか、と思い直し書いてみることにしました。

履歴書やレジュメみたいにならぬよう、エンジニアでもサイエンティストでもない「文系卒」の私がサンフランシスコベイエリア(以下「ベイエリア」[1])のテクノロジー起業エコシステムの中で現在の「芸風」[2]に至ったかにつき、人生とキャリアの主要フェーズ毎にどのような「今に繋がるもの」を獲得したか、を書いています。

私の「芸風」

万年発展途上、万年仕掛品[3]を自認する自分ですが、この数年の自己紹介をする時のキャッチフレーズは以下の通りです。

“Startup builder. Finance and Operations expert. Partner to entrepreneurs.”
(スタートアップの「築き手」、ファイナンスとオペレーションのエキスパート、起業家の相棒)

もうちょっと意訳すれば「時には経営者として、時には相談相手として起業家と会社を築く仲間」となります。

具体的には業界、市場に関わらず、多くの場合は資金調達以前のスタートアップに対し、時には「腕まくり」で自分の資金調達やら組織作りやら事業開発のノウハウを総動員して働き、時にはカウンセラーのように[4]創業者の思考を解きほぐし再構成する、と行った形で起業家や経営者の役に立っている、と自負しています。

そしてこの「芸風」、最大の特徴は日本出身・日英バイリンガルな「経営サイド」の人間としては珍しく「日本の市場や企業・投資家とベイエリアを繋ぐ」を自分の提供価値の中心に据えていないことです[5]。

「日米を繋ぐお仕事」も全否定したわけではなく、も面白そうな機会そして何より「面白い人」と出会った場合はやってきましたが、自分が自分らしく価値を出せるのはベイエリアに世界中から集まる様々な業界[6]で起業に取り組む起業家たち[7]に対し、自分の持つ数々の経験と知見の引き出しの中身を総動員して役に立てるような機会です。

言うなれば「世界の起業家の相棒」でしょうか。

この「芸風」に至るまで

そんな「芸風」の私ですが、これまでの人生とキャリアは以下のようなフェーズとして整理できます。途中多少停滞や回り道もしていますが、順番に書き出すとこうなります。

帰国できなかった帰国子女
日本のバブル銀行員
MBA留学、そしてベイエリア残留
経営コンサルタント
スタートアップ経営修行
起業家の相棒(上記「芸風」)

各フェーズでの体験を詳細に書くと「自叙伝」になってしまいキリが無いし面白くもないので[8]、ここからは上に書いた通り各フェーズでの体験の要旨とそこで得た自分の「芸風」に繋がるものを挙げていきます。

帰国できなかった帰国子女

私は日本生まれですが、幼稚園から小学校低学年までを父の転勤に帯同してニューヨーク州の郊外で過ごしました。記憶があるのはこの頃からなので父の帰任に従って日本に「帰国」した際も「言葉の通じる外国に初めて行く」ような感覚でした。

日本人はおろか「外国人」が自分と妹しかいない現地の学校に通ったため否応なしに子供言葉とはいえネイティブな英語を話し、アメリカンな自学自習中心の教育を受け、「帰国」時点では込み入った話になると英語になる[9]、といった状態でした。

そして転入した日本の小学校に「当然のごとく」馴染めず、イジメられた結果、地元の公立に行きたくないと思い私立の中高六年一貫校[10]を受験し、通うことになりました。そこでもそこでもアウトサイダー気味ではありましたがオタク趣味とその仲間に恵まれ概ね楽しく過ごしました。

大学受験時には帰国子女枠こそ使えなかったものの「アメリカの小学校仕込みの英語」を維持していたため人よりはかなり楽をして私立大学の経済学部に入りました。

大学時代はオタク趣味にのめり込んだ中学高校時代を反省し、授業やゼミナールに真面目に取り組みました。[11]ただし経済学を専攻したとは言い難く、面白そうだ思った科目ばかり履修して「リベラルアーツ」っぽい学び方をしたのと、ゼミ連合での「生徒会」めいた活動を通じ「組織運営」に触れたことが収穫でした。

以上かなり圧縮していますが12年程の期間です。

私がこのフェーズで得たものは以下3つ。

①「またアメリカに行こう」という思い。
②上を実現するための、英語力の維持・強化へのモチベーション。
③「日本国」と「日本人・日本出身者」を切り離して考える視点。

これらはのちの「学び」とは性格が異なる精神的なものですが、これらがなければ自分はここまで20年以上に渡ってベイエリアで「アメリカ人よりも(ある意味)上手な英語」を駆使し、時には意地になって「日本を中心としない」活動を追求できていなかったと思います。自分の「原点」と言っても過言ではありません。

とはいえ、この時点の自分はまだまだ幼く「受け身」で生きており、大学卒業時点では日本から「出る」機会にも恵まれませんでした。そして何よりも時はバブル絶頂期で「日本を後ろ盾に海外で戦う」選択肢に魅力がありました。易きに流れたのかもしれませんが、留学・赴任の形で海外に出る機会を与えてくれそうな日本の金融機関、それも某大手銀行に就職しました。

日本のバブル銀行員

様々な金融機関の中でその銀行を選んだのは「外資系金融機関は基本「日本市場要員」としての採用なのでむしろ日本の銀行の方が海外に出やすいのでは」と考えたのと、父の知人を通じ採用面接とは別の場でお会いした方々に「日本のサラリーマンらしからぬ」魅力を感じたからです。

実際入行してからの飲み会でも「天下国家、世界を論じる」ような行風で、日本経済の勢いにも乗っかって国際業務にも華々しく取り組んでいた銀行[12]でした。

ところが自分が最初に配属されたのは国内業務の最たるものである「窓口」の部署でした。接客もしましたが、仕事の中心は事務処理フロー改善や業務のトラブルシューティングでした。国際業務に憧れて入った若造だった自分としては当初かなり腐ったことを覚えています。

そこから比較的短期間で「国際証券業務」部署へ異動となりましたが、異動先も海外の投資家や金融機関を相手に多国籍な株・債券の取引決済と保護管理を行うこれまた「バックオフィス」的部署でした。

しかしながらその業務の「地味さ」ゆえのノウハウを持つ人材不足、そして「ガイジン」を相手にする環境は英語でのコミュニケーションに不自由しない自分にとっては逆に転機となりました。上司に恵まれたこともあり、20代前半、役職無しでありながら「銀行を代表して」[13]欧米のプロフェッショナルを相手に仕事ができたのです。 [14]

そしてもう一つの転機は、その業務が当時急速にIT化されていたため自分も顧客のニーズに応える中で「業務の電子化、自動化」に取り組んだことです。任期終盤は「ITシステム戦略担当」のような立場でオペレーションや開発のスタッフと働いていました。

この時期に交流のあったアメリカの某トップバンクの役員から「銀行業は情報産業だ」と断言されたのがその後(誤解もありましたが)自分の方向性を思いもよらぬ方向に持って行ったのですが、その話は次段で。

この銀行員時代には以下の3つの「力」をつけることができました。

①ビジネスをいかに「情報化」しデータ処理に落とし込むかを考える力。
②組織内の問題意識やノウハウを聞き出し、活かす方法を組織力学を考慮しつつ考える力。
③「プロフェッショナルとして」に欧米人とコミュニケーションを取る力。

これらを獲得し、その後の経験を通じて様々な業界・ビジネスで応用できるようになったことが、その後留学したMBAプログラムで学んだことと同じくらい、あるいはそれ以上に自分の「芸風」を可能にしていると思います。

また「ファイナンスの専門家」とはおよそ言えない自分ですが[15]現在「ファイナンシャルテクノロジー」や「ブロックチェーン」で起きていることはこの当時仲間と考えたことに通じることが多く、フィンテック分野の起業家と話す時に役立っています。

この銀行では今日まで続く大事な人間関係をいくつも築くことができたので一見「回り道」のようなこの日本での銀行勤務は今の自分にとっては不可欠な経験でした。


後編に続く

注釈

[1]「シリコンバレー」とは少し古臭く・狭く感じるので呼びません。

[2]「能力」や「提供価値」と書くほど確固たるものではなく「個性」「趣味嗜好」に近いのでこう書きます。

[3]英語だとwork in progress。こっちの方が「らしい」です。

[4] 京極夏彦読んでから「憑物落とし」と称したこともあります。

[5]この「日米」離れについてはここでは深入りしません。

[6]ざっと思い出しても]ヘルスケア、SaaS、VR/AR、フィンテック、モビリティ、IoT、教育、ハードウェアなど。

[7]「出身地」基準ではカリフォルニア以外の州、インド、フランス、ベトナム、ブラジル、カナダ、ロシア、そして日本。

[8]ご要望あれば書きます。機密保持上、また心情的に書けないこと、書きたくないことを整理した上ですが。

[9]今も「仕事がらみ」の話は英語の方が楽です。

[10]インターナショナルスクールなどではなく、東京郊外のちと個性的な受験校です。

[11]今でいう「非モテ陰キャ」でした。

[12]今も存続してまず。その後三行合併して諸々の騒動を経た末もはや面影はありませんが。

[13]上司が「おだてて伸ばす」タイプで色々任せてくれたのが大きいです。

[14]そのうちの一人にMBA留学の際推薦状を書いていただけるほど信用してもらったのは「収穫」です。

[15]会計士やアナリスト資格は持っていませんが数々の危機の中財務会計や資金調達について学び直したので「戦闘力」は高いと自負しております。

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