「月刊国語教育」で連載をした10年について。
月刊国語教育という雑誌がその昔ありました。東京法令出版です。
2011年3月で休刊を迎えたのです。その雑誌に10年近く連載していました。
でも、その頃はペンネーム(有栖川礼子・カトリーヌ白鳥)を使っていたので、ご存じの方も少ないかもしれません。しかも私の連載は、アカデミックじゃなくて誰でも書けそうなライトなエッセイだったのです。
2001年9月に「特集 古典教材採点」という特集の原稿依頼が突然お電話でありました。勤務先だったと思います。川本信幹大先生のご推薦と言われ、心臓が飛び出しそうになったのを覚えています。
厳しい時代の悪戦苦闘
その頃の私は、教育困難校で必死にもがいていましたので、生徒が興味を持ってもらえて、机に向かうなら何でもやっていました。
得意のイラストを用いて古典の授業をしたことを書きました。
生徒の解釈を狭めてしまうというご批判もあるかもしれませんが、教育困難校ではそんなことは言っていられません。解釈云々以前の、授業が成立するかしないかの問題なのです。
そうしたら、編集者の方が気に入ってくださって、ぜひ連載を!と言われて、何という身に余る光栄!と思い、連載を引き受けました。
まず最初の連載は「コミカル国語教室」。ペンネームは有栖川礼子です。
こんな感じのライトすぎる実践です。
今思えば、ご批判だらけだと思いますが、実際、立ち歩きのざらにある困難校では本当に体当たりしては失敗の連続、自分の持っているものすべてを投入して授業にあたるしかなかったのです。
そのときの私には、持っているものがなさ過ぎました。
まあベテランの先生でもため息やご苦労の連続だったのですから、若造の私にはこれしかありません。
普通に授業ができる学校に異動
そうしているうちに異動になりまして、やっと普通に授業ができる学校に。(笑)
3年間の連載後、趣向を変えて、礼子式部日記としてまたまたスタート。
この十二単を着ているのは私です!!!
国語教育のことも書きましたが、かなり自由奔放に私しか書けないことを書かせていただきました。
イラストも得意だったので、毎月自作のイラストと原稿を送っていました。
イラスト見ているだけでも、結構内容がわかりますね。
「今日も明日も授業道」としてまたスタート
3年半の連載後、今度は「今日も明日も授業道」、ペンネーム、カトリーヌ白鳥としてまた連載をスタートさせました。
そしてまた異動。今度は交流人事で国立大の附属中高等学校へ。
ここでかなりの修行を積みました。
思えば、この連載を通じてインプットとアウトプットがうまくかみ合い、私自身が大きく成長していったのではないかと思います。毎月毎月、本当に執筆が楽しみでした。
そして2011年3月で月刊国語教育は休刊を迎えました。
のべ114回の連載でした。
月刊国語教育での連載ネタでもまた書き起こすのも良いかもしれませんね。
・・・しかし、114回も、良く書いたなあ~と思います。若かったんだなあ~(汗