
懐かしい店が。
二十代のとき、長野電鉄の本郷駅からほど近いアパートに
住んでいた。目の前に葡萄畑が広がって、その向こうには
長野女子短期大学が在って、昼休みになると子供たちの
賑やかな声が聞こえてきた。
ちょうど酒の味に目覚めた頃で、県内外のいろんな銘柄に手を
付けはじめた頃だった。県外の銘柄には気に入りが出来た
ものの、残念ながら身近で手に入る県内の銘柄にはがっかり
してばかりだった。
そんなある日、アパートから五分ほど北へ上がった場所に在る、
山とも庵という蕎麦屋へ初めて行ったのだった。
暖簾をくぐると四人掛けのテーブル席がいくつかと、その奥に
座敷があって、座卓がいくつか。昔ながらの蕎麦屋の風情の
店だった。ビールを空けた後に、長野の佐久の菊秀という酒を
頼んだら、これが旨かったのだった。
やっと旨い地酒に会えました。店のご主人に扱っている酒屋を
教えてもらい、早速買いに行った。
あの頃は、蕎麦屋といえばもっぱら山とも庵ばかりで、
ちょっとした肴で菊秀を酌んでいた。山とも庵との出会いが
蕎麦屋の昼酒を始めるきっかけになったのだった。通い始めて
何年かして、店がリフォームされてきれいになった。
嬉しいのは、日本酒の銘柄ががいくつか増えたことで、
ふつうにお酒と頼むと静岡の銘酒、開運の純米酒が出てくる。
同じようにこの店を贔屓にしている友だちがいて、ときどき
一緒に昼酒に伺っていた。この店で飲む越後の〆張鶴の
純米吟醸は、なぜかことのほか旨く感じるのおと言い合った
ものだった。それからしばらくして、善光寺門前に自宅兼
仕事場を建ててからは、足が遠のいてしまった。
いちど久しぶりに伺ったら、休店日がいつの間にかこちらの
休日と同じになっていて入れなかった。
以来足を向けることがなくなったのだった。
先日、友だちからメールが来た。
山とも庵が十月いっぱいで閉店するとの知らせだった。
そうかあ、閉店かあ。もう何年も通っていなかったのに寂しい
気持ちになってしまった。
ご主人も奥さんも、とても愛想の好いかたで、いつも気持ちの
好いひとときを過ごさせていただいた。
蕎麦屋の昼酒の楽しさを教えていただいて、ほんとにありがたい
ことだった。閉店する前に、感謝の気持ちを込めて再訪を
したことだった。
惜別の〆張鶴や秋の昼。
