羅生門」に見る、真実は それぞれの 心の中に存在する。寄って、人と違っていて良いのだ。



昨日、友人との会話の中で、 真実は それぞれの心の中に在る、と話したところで、思い出したのが、

黒澤映画、羅生門。


羅生門の 話のハイライトは、ある事件だ。

登場人物は、 1、殺された男と、2、妻と、3、妻を強姦した 強盗、4、それを一部始終見ていた、目撃者、そして、5、殺された男の供述を語る 巫女。


そして、驚くことに、5者 の供述が まるで違っている、という 話だ。


人は、全く同じことを聞いたり、経験しても、全く違う、解釈の仕方をする。 それぞれの、価値観、に応じて、自分に 一番有利な 物語を作り上げる。


作り上げているけれど、それは、当の本人にとっては、その意識は全くなく、その人にとっての 真実なのだ。

この世界は、このように出来上がっていると思う。

その人の見ている、いや、見たい世界で それぞれが 生きているのだと思う。

真実とは、その人の 心の中にあるもので、 外側に見えているのは、その輪郭でしかない。


色の塗られていない デッサン画のように、 肝心の色付けは、それぞれの心の中で、塗りたい色に 描かれていく。

そう考えると、皆それぞれが 違うもので、 全員、違うということが 前提であれば、 

それを、受け入れるということの方が、抵抗もなく、自然に 生きられるような気がする。


自分が周りと、全く違っていて、普通なのだ。


一人として、同じ顔の人間が、何十億生きているのに、存在しない。


目が二つ。鼻が一つ。口が 一つ。眉が 2つ。

こんなに、単純なつくりの人間の顔なのに、自分の顔は 世界に一つ。


違うものを、敵視して、自分と違う相手をねじ伏せたい、自分の意見を 多くに承認して欲しい、という 敵か味方か、という 風潮が、世界中を覆っている。


しかし、2元論 の善か、悪か、では済まず、 人間は、30億元論 的存在 ではないか、と思っている。


勇気を持たずとも、自分が、他人と違っていて普通 ということを、前提に、表現できる世界になっていったら、それが 真の自由な世界 と言えるのではないか、と思う。

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