見出し画像

蕪木/浅草橋

蕪木祐介(かぶきゆうすけ)さんが「蕪木」を開店した2016年は、海外からやってきたコーヒーカルチャーと、ビーン・トゥ・バー(カカオ豆から一貫して自社で製造するチョコレート)が席巻する世の中でした。
けれど、蕪木さんの出自は日本の喫茶店であり日本のチョコレート
彼は珈琲豆の焙煎士で、チョコレート職人で、喫茶店店主です。

外の世界がどうあろうと、自分の内面から生まれるものを軸につくられた「蕪木」は一つひとつ、たとえばカップとソーサーが重なるときの音にさえ意味がある。取材時はまだ31歳だったの彼の言葉が、バブル以前の昭和の人に似ているなぁ、と感じたことを憶えています。

『料理通信』では2017年4月号の新米オーナーズストーリーに掲載。当初は台東区鳥越(駅は浅草橋)にありましたが、2019年12月に隣町の三筋へ移転しています。
※写真・原稿は2016年当時のものであり、2022年2月現在とは異なる場合があります。

画像3

2016.11.7 OPEN
「寄りかからずに、人の役に立つ。」


 珈琲、チョコレートの店。と書くと流行の先端を走っているようだけれど、蕪木祐介さんが立とうとしているところは世の流れとは関係ない、人が生きていくための根源的な何かとつながる場所だ。

「喫茶店の時間と珈琲に助けられてきた」という彼はもともと動物行動学を専攻して岩手・盛岡の大学に進学。
 ここが喫茶店の街だった。
 身に起きた悲しいことも嬉しいこともうまく表出できない18歳は、何かあるごとに喫茶店へ逃げ込んだ。
「自分の感情を咀嚼する時間でした。しみじみ噛み締めると、出る時にはちょっと勇気が持てた」

「場」が、誰かの役に立つ。
 そう気づいたのはもう一つ、祖母のおかげでもある。  

 酒屋兼駄菓子屋を商っていた祖母が亡くなった時、かつて駄菓子を買いに来ていた子どもたちが大人になって葬式に参列し、泣いてくれた。
 誰かの役に立つということは、それだけで存在価値がある。

 そう在るための生き方は何だろう。
 喫茶店でアルバイトし、家で豆を焙(や)きながら考えた。
 喫茶店という場を作ろうか、それとも動物の道か。悩んだ末に一旦保留。福岡の大学院に進学したのだが、そこには日本を代表する珈琲職人、故・森光宗男(もりみつむねお)さんの店「珈琲美美(びみ)」があった。

 道は喫茶店のほうへ拓け、蕪木さんは改めて、食の知識を深めるため図書館通いを始める。その日々の中で、たまたまカカオの本を手にしてしまった。
 それは調べるほど、知るほどに面白い世界。
「珈琲は精神に活力を与え、思考の世界に入り込むもの。一方チョコレートは緊張をふわっと解きほぐし、幸福感を与え、小さく高揚させる。豊かな喫茶店の時間には、どっちも必要な要素だなと」

画像3


 だが珈琲は経験してきたが、カカオ豆からのチョコレート製造をどう学ぶか。カカオ産地にはどうしたら行けるのか。
 探していると、日本のロッテが発表していた記事に出会った。
「今でこそビーン・トゥ・バーと言われていますが、ロッテは50年前からやっていること。日本人の舌に合わせて作り続けてきたメーカーの技術力と知見の深さ、何より“人の想い”を感じました」

 蕪木さんはチョコレートの研究開発職員としてロッテに就職。そこで目の当たりにしたのは、日本のチョコレートの世界的な水準の高さであった。
 古くからさまざまな土地で作られてきたけれど、日本ほどなめらかな舌触りを求め、実現している国はないそうだ。
 粒子をごくごく細かく砕き、舌にまとわりつくように溶けて伸びていくチョコレート。欧米の少し粗めの食感より、なめらかさを好む日本人のために開発された技術である。

 個人で珈琲を、会社ではチョコレートを深めて7年。
「日本のチョコレート」と「喫茶店の珈琲」、昭和の日本が育んできた二つの文化を引き継ぐように、昨年11月、「蕪木」は東京・浅草橋に開店した。

 東京の理由は、ふと逃げ込めるような喫茶店が、きっと必要とされる街だから。
 浅草橋は職人が集まり、下町独特の空気をもつ気持ちの良い場所だったから。

 問屋や商店の古い建築が並ぶ街に、一枚のドアがぽつんと現れる。窓のない建物は開けるのに少々勇気が要り、入ってもほの暗い店内。
 だが深呼吸するように気持ちがゆっくりと落ち着き、不思議なことにどんどん深く安心していく。
 その居心地を、ある人は胎内と表現した。
「ハレとケの狭間にある空間にするためには、“閉じる”必要がありました」

 この空間には、「喫茶店」に対する蕪木さんの敬意が詰まっている。
 木の質感。
 磁器製カップをソーサーに置く時の、カチャ、という硬質な音。
 ネルドリップは味のなめらかさもあるが、何より両手で淹れたいから。
 わかりやすくはないから気づかないかもしれないけれど、そういう美しさで満たされている箱である。

「僕の目的は“面白い”じゃありません。流行り廃りに流されたくないし、格好良さやスタイリッシュも要らない」
 手にしているのは自分が感じたこと、味わったこと、学んだこと。ほかの何にも寄りかからず、そこだけに立っている。

画像2

蕪木
東京都台東区三筋1-12-12
☎03-5809-3918


サポートありがとうございます!取材、執筆のために使わせていただきます。