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サクラのこと〜2. 「ホームレス猫と呼ばれて」

 翌朝起きてすぐ階下に下りていくと、ダンボールの中には誰もいなくて、2匹は玄関ドアの前の小さな土間に乱雑に置かれたサンダルの上で丸くなって寝ていた。そして、あたりには異様な匂いが充満していた。猫(どころか鳥以外の生き物)を飼ったことのない私は、彼らがおしっこやウンチをするということにまったく思い至らなかったのだ。食べたら出す。こんな当たり前のことすら思いつかないで、ただ可愛さに舞い上がって家に連れてきてしまった自分を罵りながら、土間に黒い染みを作っている2匹分のおしっこと、靴の上にちょんと置かれたウンチの始末に取りかかる。猫を飼ったことのある人なら知っていると思うが、猫のおしっこはかなり臭い。土間を水で流して雑巾で拭いたぐらいではその臭いは取れるはずもなく、仕方なくドアを開けっ放しにして換気を試みた。

 その時私が住んでいた家は、私の家ではなかった。家の持ち主は猫嫌いではなかったが、家の契約の中にペットを飼えるという項目がないからと言われれば、それに逆らうことはもとよりできるはずもない。私は、生まれて初めて「猫」を手にした喜びを一晩で手放さざるを得なかった。その代わり、と言ってはなんだが、その家の裏には猫のひたいほどの(ここにこの形容詞を使うのもなんだかおかしいが)庭があって、そこで猫に餌をやることは許されたので、晴れて2匹は「外猫」となった。

 「外猫」とはいえ彼らは「ウチの猫」であるのだから、名前をつけてやらなければならない。すると家主はこう言った。

 「時々やってきて餌をもらうんだから、オスの方は白次郎、メスは妹のサクラでどう。」

 映画「男はつらいよ」をこよなく愛していた家主のつけたその猫らしからぬ名前を、私はとても気に入った。結局最後まで2匹がどういう関係だったのかはわからないままだったが、2匹とも一点の混じり気もない真っ白な毛色で、顔つきもたいへんよく似ていたし、2匹一緒にいたのだから「きょうだい」という推測はおそらく間違ってはいなかったと思う。白次郎は金色の目をもち、サクラは右がブルーで左が金のオッドアイだった。白次郎の方がサクラより一回りほど大きく、だからきっと兄と妹なのだろう、というのは人間の勝手な思い込みだったけれど、ともかく彼らはきょうだいで、きっと家で飼われている母猫から生まれたものの飼いきれなくなって外に捨てられたのだろう、と考えた。後になって、近所にサクラそっくりの白猫がいるという情報がもたらされたことがあり、どうやらこの推測は当たっていたようだ。

 こうして、白次郎とサクラは毎日朝晩、家の裏庭にやってきて餌をもらい、庭の決まった場所でトイレをしていく猫となった。もちろん、一日中外にいるのだから、どこか別の場所で餌をもらい、別の名前で可愛がられる生活があったのかもしれない。そしてどこか別の場所でトイレをして近隣の人たちに迷惑をかけてもいたのだろう。しかしその時の私は、「外猫」という存在が地域にとってどういうものなのかについて、あまりにも無知だった。ただただ、生まれて初めて「猫」を手に入れたことに有頂天になっていた。冬がやってきてどんどん寒くなると、家主は板切れとボロ布で作った自作の猫小屋を裏庭に設置した。猫たちはそこに入っていることもあれば、入っていないこともあった。とにかく2匹は自由に生きていて、餌という細い糸ではあったけれど彼らに繋がっているだけで私は幸せな気持ちになった。

 そんなある日、いつものように餌をもらいにきたサクラの様子がおかしいことに気づいた。ズビズビと鼻水を垂らし、片方の目が目ヤニのようなもので半分ふさがってしまっている。これは…風邪?であれば病院に連れていかなければならない。私はネットで近くにある動物病院を検索した。歩いて行けるところにはなかったが、車なら10分ほどのところに一軒の良さそうな病院がある。幸い駐車場もあるようなので、すぐに電話をして診察の予約を取り付けた。次に車でホームセンターに乗りつけると、それらしい大きさのキャリーケースを一つ買い求め、大急ぎで家にとって返した。この時に買ったベージュ色のプラスチックのキャリーケースは、結局サクラを最後まで病院に運び続ける役目を担うことになった。

 後になってこういうケースでは洗濯ネットに包んでいけばいいということを知ったが、その時はそんな知識もなければ「調べる」という頭もどこかにすっ飛んでいた。幸いサクラはわりに大人しく抱っこをさせてくれる猫だったので、キャリーケースに入れるのに苦労はしなかったが、入れた途端に猛烈な抗議が始まった。車を運転している間中、助手席に乗せたケースからは「ああああああん、おおおおおおん」というドスのきいた低い抗議の声が発せられ続けた。

 動物病院の先生はやや年配の、髪に白いものが混じった落ち着いた雰囲気の男性の先生だった。カルテを記載する時「完全室内飼いかどうか」とたずねられ、その単語自体初めて聞くものであった私は、「あの、野良というか…外猫で…餌をやっているんですが…」としどろもどろに答えると、「ああ、ホームレス猫ですね」と即座に答えがかえってきた。診断は想像通り風邪だったが、帰り際に先生はごく優しい、しかしきっぱりとした口調でこうおっしゃった。

 「昔と違って今は猫も完全室内飼いが基本です。外にいるとケンカで病気をもらったり、車に轢かれたり、猫にとっては危険なことが多くて寿命も短い。家の中で育てることはできないんですか?」

 それはできないのだ。「すみません、家の事情でできないんです」と答えると、先生はそれ以上その話題には触れなかった。「ホームレス猫」という言葉の衝撃と共に、その話は私の心にずっとくすぶり続けた。

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