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「駈込み訴え 太宰治」【6/9執筆】

↑青空文庫なので0円で読めます、オススメ


「私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。」

この物語は、「私」から「あの人」への重く強い愛情が丹念に描かれている。特徴的なのは、さまざまな「愛情」を丁寧に表現している点である。

時に純粋な「愛情」かと思えば、「ああ、ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。」にあるような嫉妬にまみれた「愛情」、「一日も早くあの人を殺してあげなければならぬ」にあるような憎悪に満ちた「愛情」など、「私」が「あの人」に抱く「愛情」の七変化が強く印象に残っている。

正直なところ、冒頭部分では物語の流れを掴むことができなかったが、弟子の名前のヒントを集めていくうちに、「あの人」がイエスキリストであることに気付き、納得できた。


北條綾音「『駈込み訴へ』の方法と戦略――語り・主題のアンビバレンス――」(『国文』、平成二十四年七月)では、「この語りは、下敷きとなっている聖書やキリスト教に関する基本的な知識が作者と読者の間で共有されている、という前提に立つものである。」との記述があり、概ね同意できる。

裏を返すと、「基本的な知識」が不足している場合、物語の読みが浅くなってしまうということになるだろう。つまり、現代風に言うと、元ネタを知らない人には分からない、ということになろう。

とりわけ「駈込み訴へ」では、あまりにも前提条件を物語外に依拠しすぎではないだろうか。

北條氏はこのように続けている。

「従って登場人物の造形は、あらかじめ作品外の情報によって個性や役割を少なからず規定されているものと考えられる。」と。

物語の途中で、聖書の影響を受けている程度のものであれば、おそらく基本的な知識がなくとも全容を理解できるだろうが、物語の前提から聖書に寄りかかる形式では、読み手を選ぶことになろう。

作者の独りよがりではないだろうか。もしくは、作者本人が、聖書の影響を受けていない人間を読者から排除しようと企図したのやもしれぬ。

先行研究が数多くあること、また解釈も割れ、賛否両論ある点からも、この結果が窺える。作者の意図的か否か不明だが。


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