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日本は単一民族性の強い社会なのか

日本は、アイヌ民族なども居住していることから単一民族国家ではないと言えるが、単一民族性の強い社会であると私も考えている。

なぜなら、ほとんどの日本国民が一言語、つまり日本語を話し、また無宗教であるためだ。

もちろん、単一民族性が強いために、日本の多くの地域で日本語が通じてコミュニケーションを取ることができ、また他の多民族国家に比べて民族紛争が少ないことなどの利点も挙げられるだろう。

しかしながら、私は、単一民族性の強い日本ならではの恐ろしい「同調圧力」についても触れねばなるまいと考えている。

とりわけここでは、スポーツと単一民族性が孕む「同調圧力」の関係性から考えていきたい。

スポーツと「同調圧力」には切っても切れない関係性があり、そしてそれをメディアが率先して取り上げてきたという根深い歴史的背景があるのだ。

2019年のラグビーワールドカップで史上初のベスト8を達成し、連日メディアで取り上げられたラグビー日本代表チームには、周知の通り、日本人だけではなく、ニュージーランド出身の主将リーチ・マイケルを筆頭に、南アフリカ、韓国、オーストラリア、サモアなど、様々なルーツの選手たちが多数所属していた。

そういったチーム事情も相まってか、露骨な日の丸や富士山の表出、君が代合唱、模造刀の引き継ぎの儀式など、自国の文化を押し付ける、いわゆるエスノセントリズム(自文化中心主義)の風潮が強まっているように感じられた。

そして、こういったエピソードの数々を日本のメディアは大々的に報じ、感動ムードを創出していたのだ。

私は、ここに違和感を感じずにはいられなかったのを思い出したのだ。

これではまるで、戦時中のナショナリズムと同類であり、日本の単一民族性が孕む「同調圧力」の危険性がうかがえる。

1930~40年代の日韓併合下における同化政策、いわゆる皇民化政策を彷彿とさせる。

日本では、上記のような報道が数多くされており、非常に不快である。

なぜなら、我々は”全員同じ日本人”ではないからだ。

全員同じ、普通の日本人といった「同調圧力」が、ときにマイノリティを苦しめるのだろう。

我々は一人一人が違う人間である。単一民族性が生み出す「全員が同じ日本人だ」という固定観念に押し付けられることなく、個人個人が認められる世の中になることを願っている。

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