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ボクらにはヤマパンがあった

先日読了した「餃子のおんがえし」(じろまるいずみ著)

その中に、著者の高校時代の思い出も交えて紹介されているのが、なかぱんこと館山中村屋である。

行ったこともないなかぱんにノスタルジーを抱かせるのは、著者じろまるさんの筆力にもよるのだろうが、それだけではなく、同じように高校時代の思い出が詰まった場所が自分にもあるせいもあるだろう。

私は東京東南部の下町で育ち、高校も2ブロックほど隣の下町の都立高に通っていた。

とある分野で名が売れたこともあり、「都立の星」だなんて呼ばれたこともある。

そんな星の子たちの憩いの場所が、高校の正門の正面にあったヤマザキパンショップ、通称ヤマパンである。

立派な駄菓子屋とも、こじんまりとしたコンビニともいえる店構えながら、店の奥にはささやかながらダイニングテーブルが置かれたスペースがあった。

当時大手のコンビニでも珍しかったイートインスペースと、言えなくはない。

夕方には、運動部の練習を終えた様々な部活の選手が集い、疲れを癒し、水分と糖分と塩分とその他いろいろの何かを補給して、少しだけ元気になって家路に就く。

部活の仲間とお菓子を分け合ったのも、後輩に先輩ヅラしてジュースをおごったのも、テニス部女子の同級生に目線と「肉まん♡」の一言だけで肉まんをおごらされたのもヤマパンだ。

お店を切り盛りしているのは、ちょうど生徒の母親世代のおばちゃんで、いつでも底抜けに明るかった。

みんな、ヤマパンのおばちゃんを慕っていた。

悩みや愚痴を聞いてもらっていた生徒も少なくなかった。

ヤマパンに並んだ水分と糖分と塩分とおばちゃんの笑顔に、星の子たちは元気をもらっていたのだった。

卒業式の後は大挙して押しかけ、みんなで色紙にヤマパンへの溢れる思いとお礼の気持ちを綴って贈った。

イートインスペースの壁には、先輩方の色紙が並んでいた。

それは、有名人や芸能人のサイン色紙よりも誇らしく、輝いていた。

時は流れ。

一浪の末大学に入り、4年生の梅雨時に、私は教育実習生として母校に凱旋(?)した。

実習前の打ち合わせがあって、久々に母校に足を踏み入れる。

打ち合わせが終わったらヤマパンに立ち寄り、おばちゃんに挨拶と報告をするんだ。

今度は先生やるんだぜ。

しかし、その日ヤマパンのシャッターは閉まっていた。

そして実習の日を迎え、2週間にわたって母校に通った期間も、ヤマパンのシャッターが開くことはなかった。

建物はあの頃と同じだが、看板は暗く汚れ(たように見えただけかも)、ひどくシンとしていた。

あの頃の賑わっていたヤマパンは、もうそこにはなかった。

近所にはあの頃なかったコンビニができていたが、そんなものに負けるようなヤマパンではない。

おばちゃんに何かあったんだろうか?

シャッターに何か貼り紙などがあるわけでもなく、閉店からしばらく経っていたのかもしれなかった。

卒業から5年目。

たった5年。

でも、5年も経ってしまった。

この間、一人暮らしで地元を離れていたこともあって、母校にもヤマパンにも顔を出していなかった。

それは仕方ないことだけど、とても悔しいことだった。

最後の日はちゃんと星の子たちに見送られながら迎えられたのだろうか?

旅立った星の子たちの思いが詰まった色紙はどうなったのだろうか?

おばちゃんは元気なのだろうか?

もう、知る由もない。

でも、私と同世代とそれ以前の星の子たちの心には、いつまでもヤマパンとヤマパンのおばちゃんへの感謝と思い出が残り続けることを、私は信じて疑わない。

ヤマパンよ、永遠に。

母校は大規模改修工事で建て替えられ、あの頃の面影は、きっと何もなくなってしまった。

新しくなった校舎がなんだとか、最近の星の子がどうだとか、おばちゃんとお話したかったな。

ヤマパン、おばちゃん、本当にありがとうね。

いずれおばちゃんにお会いできる日を夢見て。

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